2017
08.14

お坊さんにお経を読んでもらう意味

Category: 雑記つれづれ


先日、私の叔父さんが95歳で亡くなりました。

お通夜の時に、お坊さんが20分~30分お経をあげていましたが、生前、家に仏壇がなくお経をあげたことがない人の旅立ちにお経をあげても、本人に理解できるのだろうかと言う不謹慎なギモンがよぎりました。

本日はお盆ということで、「お坊さんにお経を読んでもらう意味」について検索しました。

たくさんの記事を掲載していますので、普段はあまりなじみのない(お坊さんが読む)お経に関して、なるほど!と合点する箇所があれば幸いです。

記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っていますので、興味のある方は本サイトもご覧下さい。

「へえっ!」という記事がたくさん掲載されていますので、面白いですよ♪


▲福岡の霊能者・佳蔵院

お経が霊に与える影響

人が亡くなったあと、お迎えがない、また「死」が理解できない魂を包むものは、深い暗闇です。

意識(魂)がいくら叫んでも、誰も応答してくれません。

なにがどうなったのか分からないまま、暗闇の中をさ迷い続けます。

そんなとき、ある振動に気付く時があります。それまで、暗闇以外に何もなかった中で、ある振動に気付くときがあります。

恐らく亡くなったあと、お迎えがなかったり、また死を悟ることができなかった意識(魂)が初めて気付くものは、お経の振動や悲しみのような感情(振動)だと思います。

悲しみのような感情(振動)とは、亡くなった方へ向けられた、家族や友人等の悲しい気持ちのことです。

振動と書いていますけど、音が空気中を伝わるときの振動と同じように考え下さいね。前回のブログでも書いていますけど、この世と霊的世界は表裏一体の関係であって、例えば、空気中を伝わる声の振動と表裏一体にあたる振動が霊的世界でも流れると思って下さい。

暗闇の中で、お経や悲しい感情のような振動に意識(魂)が気付いたとき、「死」を理解し始めることでしょう。

もしかして、自分は死んでしまったのではないかと思うようになってきます。

お経や悲しい感情のような振動が意識(魂)の中を流れ続けるなか、「死」を悟り、また死を受け入れたとき、お迎えや神仏の光等が現れ、導かれていきます。

このようなことを考えると、お葬式等で上げられるお経に意味が生じてきます。

お経に書かれている内容を理解できなくても、「お経」がきっかけとして、「死」を理解できるようになっとです(¯―¯٥)

実はお経だけでなく、他宗教の儀式でも同じことが言えます。

例えば、神道の神葬祭やキリスト教の葬儀において行われる祭詞や賛美歌等の声の振動が、表裏一体の振動として霊的世界でも流れます。

葬儀に集まった方の深い悲しみ・・・
 
例えば、「泣く」「偲(しの)ぶ」等の声の振動も、表裏一体としてその振動が霊的世界でも流れます。

大勢の方の悲しみが、また家族の深い悲しみが霊的世界を流れる一つの振動(信号)として、流れます。

魂(意識)には耳はありませんから、普段私達が耳で音を聞くのと同じといわけではありません。

しかし、意識=魂=記憶=情報には、生前に聞いた記憶が残っているとです。

生前に聞いた覚えのあるお経や賛美歌等が魂の中にあるとです。

「亡くなった方に向け」て、この世で発せられたお経や悲しみの振動が霊的世界においても、似たような振動(信号)として流れ、その振動に生前の記憶(魂の記憶)が同調したとき、「お経」や「哀悼(あいとう)」を認識できるとです。

お経に書かれていることが分からなくても、お経が意味するものを悟るとですたい。つまり、自分の「死」を理解できるとです。

お経に書かれている内容が生きている人へのアドバイスであったとしても、お経は葬式等で上げられているので、お経から「死」を理解できるとです。

自分が死んだから、お経が上げられているということ、また悲しまれていることが分かるんですね。

(中略)

お坊さんによるお経が特別というわけではなく、私達がお経を上げる目的や感情等が大切になってきます。

お坊さんにお経を読んでもらうことに意味はあるのか?


▲Yahoo!Japan 知恵袋

仏教でお坊さんにお経を読んでもらう事に意味はあるのでしょうか?

葬式や法事(三回忌・七回忌・13回忌など)で、お坊さんに多額のお金を払ってお経を読んでもらう事に疑問を感じています。

おそらく、「お坊さんのお経がありがたいから」というのが理由でしょうが、本当にお坊さんのお経はありがたいものなのでしょうか?

現在の日本の僧侶は、世襲で、世俗的な生活をし、私たち世俗の人間と全く変わりません。

タイなどの厳格な仏教国の僧侶のお経なら、ありがたく感じるのでしょうが。

私の知っているお寺の住職は、三回忌・七回忌など30分の法要でお経を読んでもらう費用が、暗黙的に5万円以上らしく、3万円のお包みだと、露骨に玄関に受け取りにも来ません。

私は、多くの日本人が儀式的に、また世間体から法事を行って多額のお金を払っている事に疑問を感じます。

仏教徒なら、自分たちでお経を読んで供養すれば、それで良いのではないですか?

このままだと、日本人の仏教離れが進んで、いずれお寺は無くなってしまうと思います。




世襲制だけの問題でなく、仏教自体に関心はないのに法要など儀式などの際だけ寺院を利用しようという一般的な民衆の考え方の問題も大きいでしょう。

葬式仏教化というのは、寺院側だけが悪いのではなく、法事や葬儀での収入でしか寺院経営が成り立たない状況に陥らせた檀家の責任でもあるのです。

タイの仏教を例にあげておられますが、現地の民衆と日本の民衆とでは寺院や仏教に対する基本的意識がまるで違います。

本来、寺院は僧団(仏教徒の仲間)が集まり、仏法を学ぶ、教えを聞くための道場です。

道場を敬い、道場を守るために、また自分の修行のために、件の国の民衆には喜捨・布施の精神が基本的にあります。

多くの日本人には教えそのものを学ぶ意識は薄く、自分たちの寺院を守るという意識は皆無に等しいでしょう。当然、喜捨・布施の精神などありません。

布施と言えば法要のお礼、或いはお経代、喜捨といってもそれによって何らかの功徳を得ようとする邪心を持ってすることも少なくないでしょう。

願望成就や災厄除去、先祖崇拝や魔除けなど本来仏教と関係のない民間信仰や欲望の拠り所として仏教を見て、利用している場合がほとんどです。

少しでも本気で仏教を学べば、今の日本仏教の在り方、仏教徒(「家の宗教が〇〇宗」、程度の)の在り方の中に本来の仏教がないことは明らかです。

お経はいくら読もうが、僧侶が読もうがあなたが読もうが意味が変わる筈もなく、また読んだだけでは何の功徳もありません。

お経は、生きている者が生きているうちに背負うあらゆる苦悩を生きているうちに解決するためにお釈迦様が説かれた教えを、様々な表現でまとめ上げたものです。

よって、先祖供養だの願望成就だのといった現世利益や来世利益とは全く関係ありません。教えは実践して初めて意味があるのです。

お経だけ読めば何かの利益があるだろうというのは、意味を理解しなくてもただ教科書の文字面さえ追って読んでおけば、或いは誰かに読んでもらえば成績があがるだろうと考えるのと同じです。愚かと言わざるを得ません。

教え自体に興味がないなら、檀家などやめて仏教徒もどきなどやめてしまえば良いのです。

法要や葬儀という寺院の行う仏教ビジネスを利用するのであれば、そう割り切って利用すれば良いでしょう。

同じ儀式ビジネスを利用しながら、結婚式では高額でも文句を言わない人が、葬儀・法要では不平を並べる人が多いのは困ったものですよね。



お寺の財産はお坊さんのものじゃなくて、檀家全体のものです。お布施がなきゃ、寺院の維持管理ができません。

もともと、多くの神社仏閣は、寄進された田畑が経営基盤でした。

しかし、戦後のGHQによる農地解放令で、そのほとんどを失くしてしまいました。

一律に農地解放を進めたGHQの政策、無茶だったんですよ。

で、寺域すら失くしてしまった寺院が頼れるのは檀家制度だけになってしまった・・・。

檀家30軒余りの寺院、食っていけるわけがない。住職のなり手すらなく、荒廃、寺宝散逸・・・。

天皇家や摂関家の勅願寺、檀家すらないよ。

格式が高いから、寺宝類を大量に所有、で、観光寺院化するしかなくなっちゃった。

国や自治体の文化財保護行政は貧困で、義務負担分すら支払われず、文化財が売りに出されて海外流出の危機にある、で、新興宗教に頼んで買い取ってもらい、国指定の文化財にしてるんです。

国立博物館は特殊法人化され、独立採算制だから、かつてのように文化財を購入することもままならん。

義務負担分を出すのが嫌だからと、都道府県じゃ文化財指定をやめたところまであるのよね。

で、無指定の文化財がいきなり国の重要文化財に指定されたりしてる、寺院が全額負担して、修理したら指定を受けてる状態なんですよ。

つまり、檀家制度を止めちまったら、あっという間に寺院会計が破綻して、寺域は荒廃し、寺宝類は散逸して海外に流出してしまう・・・。

実際に、滋賀県にある鎌倉時代の十二天画像、これ、もの凄く珍しいんだけど、ボロボロになってて、どんどんと剥離が進んでるのを見たことがある。

修理代、最低でも一本300万、状態が悪きゃ7~800万はかかってしまう、そいつが12本セットで残ってるのね。

日本でおそらく3番目くらいに古いもので、国宝クラスなのよ。だけど、国どころか県も市も文化財に指定しようとせん。

檀家50件余り、それでどうやって5000万近い修理費が負担できます?

良心的なお坊さん、いっぱいおられるよ。で、寺院経営に頭を痛めていらっしゃる。

檀家であるってことは、その寺院を維持管理する義務があるんです。

GHQが寺院財産の田畑を取り上げちまった以上、檀家が何とかする以外に残された道はないんです。

法事のお布施を払うのが惜しいのであれば、檀家を離脱して無宗教になればよい。それだけのことですわ。

お経を唱えていただく意味はあるのか・・・。

仏教徒である以上は、仏教の勉強をせにゃいかん、そこで仏弟子であるお坊さんが、お経を読み聞かせるわけです。

生きてるうちにやればいいことを、死んでから立派な戒名くれだの仏弟子にしろだの浄土に連れて行けだのというから、お金がかかる、何の意味があるのよってことになる。

生きてるうちに戒名をいただいて仏弟子となり、仏教学の勉強をすればよい、ただし、そっちの方がずっとお金も時間もかかるよ。

ですから、輪廻なんか信じてない、死んだら終わりであとは知らん、戒名も法要も要らないと仰るのなら、あえて檀家である必要などないですよ。



世襲制以上に、一般の方々の関心の無さが一番の問題でしょうね。

お坊さんが幾ら一生懸命にお経をあげても決して人は救われません。

シナ(現在の中国)ではお経そのものに力があり、お経を読むとで人は救われると考えられていました。

ですから、良いご利益が連ねられているお経が喜ばれた訳です。

代表的なものが天台智顗(ちぎ)の五時八教ですが、日本の仏教はその考えをそのまま輸入して現在に至ります。

日本の仏教が葬儀のときに教をあげるのはそういった背景があります。

でも、明治になり日本の僧侶がイギリス(明治時代のインドはイギリスの植民地)に留学できるようになると、法華経を初めとして全ての大乗仏教は仏陀が入滅して500年以上してから創られた創作物だい言う事が解ってきました。

専修大学で使われている歴史教科書にもそのように載っています。

また一方で、仏陀釈尊は経典を創りませんでしたが、仏陀の直弟子により創られたのが阿含経のみだということも解りました。

阿含経典は、ご利益は一切載っていません。

殆んどが修行法と修行に対する心構えに関する文献です。

例えば、自動車の教科書をいくら声高らかに音読しても、自動車の運転は上手くなりませんよね?。

仏陀の残された経典である阿含経をいくら読んでも、人は成仏しませんし死者が救われる事はありません。

現在のお坊さんはこの事を専修大学で確り学んで来ていますが、だからといって直ぐに千年以上の因習が切れるわけではありません。

結局の所、私たち自身がお坊さんに丸投げしている限り解決しない問題です。

失礼とは思いますが、貴方の親が亡くなったとしてお坊さんに、

「葬式は挙げません。」「経典を読まなくても結構です。」と言えますか?。

恐らく無理でしょう?。

親類や、周りの地域住民の感情がありますからね。

結局は、世間一般(自分自身を含めて)の無関心の常識がある限り、世襲制であっても無くても変わらないと思います。



葬式にしても法事にしても亡くなった人には無意味です。

建前は故人のためですが、それらは生き残った人のためになされるものです。

それが必要なことなのか、大事なことなのか、考えるべきことだと思います。

御経料が高いか安いかですが、これも5万円が相場のようになっているようなら3万円は安いと思われるは人情でしょう。

しかし、お布施というのは出せる者はできるだけ多く出し、受け取る方はその多寡を気にするようなことがあってはならないと思うのですが・・・。



お経は生きている私たちへのお釈迦様の説法です

お釈迦様は亡くなった方への説法はしておられません。


ですから亡くなった方に聞いて頂くお経は一つもありません

お布施は、その教えが孫子の代までずっと続くようにお寺を維持するためのものです

仏教は涅槃の話ですが、お寺を維持するのは娑婆の話しですからお金は必要です。

檀家(メンバーシップ)で維持しているわけです。

私たち自己流で仏教を伝えていくことは難しいものです。

自分が仏教徒でお寺の檀家になっていると思っていても既に間違った仏教感があります。

自分が仏教徒であり仏教を伝えていく、という思いがなければお布施の額を問題にするようになります。

そういう方達は普段僧侶とコミュニケーションがないと思います。

どんどん話をして納得できなければ一度お寺から離れればいいと思います。それでなんの支障もありません。



私も僧侶ですが、結論は貴方が記されてるように、自分たちでお経を読んで供養すれば良いと思います。この結論に関しては異論はありません。

では、質問に記されてる内容を個々に疑問を記します。

「日本の僧侶は世襲で、世俗的…タイの厳格な仏教国の僧侶…」

日本の僧侶は大昔から、理想とされる僧侶も、世俗以上に世俗的な僧侶がいてます。今も昔も同じです。

タイでも最近大きなニュースになっていましたが自家用飛行機等を有し、女性をはべらしてる僧侶がいてます。

人間ですから、日本もタイも同じです。少し違うのは、タイでは出家と還俗が簡単に繰り返される事です。

簡単に言えば、女遊びをしたければ還俗し、また出家する。それを繰り返し行う事ができます。

「私の知ってる住職…」先に記しましたように、そのような僧侶もいてるでしょう。

ただ、法事のお布施が5万なら別段多いとは思いませんし、3万でも少ないとは思いませんね。

私も、法事のお経は30分程度です。短いと感じる人もいてるし、ちょうど良い、それでも長いと感じる人、それぞれですね。

本当にその差が露骨に態度に表れる僧侶なら、よく言えば正直、悪く言えば気が小さいかな。

「儀式的に…」宗教・信仰は儀式に対してお金を出してる部分は大きいと思いますよ。

例えば、安産祈願、生まれてお宮参り、お祓い、七五三、交通安全、合格祈願、結婚式、葬式…等無数に近いほど、神官・僧侶・牧師等が、宗教儀式を行い、それに対してお金を使っているのではありませんか?

法事もその内の一つでしょう。どれもこれも、どうしても行わなくてはいけない宗教儀式ではありません。

宗教に限らず、儀式とはそんなものです。そして、それぞれに気持ちを表す意味があるのです。

それらが全て「もったいない」いらないと思うなら、やらなければ良いですし、自分たちで行っても良いでしょう。

ただ儀式は人間が行う文化でもあり、動物の中でほぼ人間が他動物との区別できる部分でしょう。

「いずれ寺はなくなる」かも知れませんが、私はそう思いませんね。

政府や法律はころころ変わってますが、日本のお寺は千年以上、仏教は2500年以上、形は変わっても続いています。

*もちろん消失したり、廃寺になってる寺も多くありますが、それは近年に限らず大昔からの事です。

文献にあっても場所さえわからない寺はいくらでもありますからね。

単純に、昔から無宗教、無信仰者はいてますし、現代のように物質が全て、生きる死生観から、死が欠落して生観ばかりの人が多いのも事実ですが、逆に宗教を重んじる人も多いですから、寺は無くならないとおもいます。


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2017
07.24

認知症?最近ちょくちょくヤバいっス!

Category: 雑記つれづれ


最近、人と話をしていて肝心な言葉が出てこなくて、「ええっと、あの…さぁ」と話が中断してしまうことがたびたびあります。

仕事上の話だと、前もって調べて書類にしていますので、ちらっと見れば問題はないのですが、ヤバいのは世間話の時です。

60歳台前半とは言え、認知症発症は個人差があると言われていますので、ちょっと気になるお年頃なのです(ノ_<)

調べてみると、「ぼけ」は正常範囲内の老化現象とのことで、ある出来事の中の一部を忘れてしまうのが正常な「物忘れ」らしく、出来事の全てを忘れてしまうのが「認知症」とのことです。だから、

・約束を忘れたり、

・道に迷ったり、

・いつもの日課をこなさない、

・だらしなくなる


などの症状があらわれたら、認知症を疑う必要があります。

自分のこともそうなのですが、高齢の親の言動にも注意が必要と思い、ネット検索していたら、とても解りやすいサイトを見つけたのでご紹介します。

本日のブログでは、転載する記事は一つにとどめますので、実際に本サイトを覗いてみてください。

前もって知っておくと、いざと言うときに慌てずに済みますから。

シニア世代の方には、是非読んで頂きたいサイトのひとつです。

タイトル画像にリンクを貼っていますので、画像をクリックして本サイトをご覧下さいませ。


▲認知症症状.com

認知症になりやすい生き方

認知症になりやすい「生き方」の傾向はあるのでしょうか。

フレディ松川先生の病院では、以下のような傾向があると言います。

※該当するタイプの人が必ず認知症になるということではありませんので、誤解なきようお願いします。

一般的な予防の参考としてお読み下さい。

相手まかせ、人まかせの人

親子夫婦、様々な場合に当てはまるかもませんが、相手に対する依存度が高い人が認知症になりやすいといえるようです。

例えば、これは世代によってかなり違うかもしれませんが、高度経済成長期を生き抜いてきた世代で、夫がいるときには「お父さん、お父さん」といって、何をするにも決めるにも、自分で考えようとせずに「相手まかせ」「人まかせ」になってしまう妻がいたとします。

夫が家の主役であり、夫に物事の意思や決定を任せている、という状態です。

夫に対する依存心が高い妻というわけですが、これは認知症になる傾向が高いようです。

同じように、妻に対する依存心が高い夫もまた然り、ということでしょう。

発展しようとしない人

「認知症になりやすい職業(学校の教師、職種別)」でも触れていますが、例えば、多くの業績を残して成功を収めた著名な学者でも、認知症になる人はなるようです。

いくらその世界で名を残した人であっても、後年その権威の中にどっぷりと浸かって新しい研究をするという「意欲」を持たない、他の学者の新説に対して論駁(ろんばく)する気力もない。

そうなってしまうと、もはやそれ以上の発展性がもてなくなり、それまでいかに頭を使って生きてきたとしても、やがては認知症になってしまう可能性が高いといいます。

結局は、それまでの経緯や今の環境とは別な、現在の本人の考え方・生き方に左右されるように思います。

変化を求めず、変わらぬ環境で生きてきた人

サラリーマンの世界を見てみるとどうでしょう。

昔は「安定」といったイメージがあったかもしれないサラリーマンですが、昨今では決して平坦な道はなく、いつ会社が傾くか、いつリストラされるかという不安の中で、戦々恐々として日々仕事している人も多いのではないでしょうか。

これでは、心理的には不安定な状態の自営業者とあまり変わらない部分もあるかもしれません。

しかしむしろこれは、「認知症になりにくい」といえるようです。なぜならば、日々生きるために必死になり、意欲を持って工夫して生き延びなければならないからです。

しかし、会社によって、職種によって、また時代によっては、ずいぶん環境が違うかもしれませんが、不条理な上司のいいつけを我慢して守り、変化を好まず、「真面目に、勤勉に、遅れず、休まず」そしてある意味「働かず」という生き方をして、やがてつつがなく定年を迎えた人たちが認知症になった例が、とても多いといいます。

言い換えると、意欲を持たずに何事にも我慢して従ってきた人で、波乱万丈とは全く無縁な人生です。

こうした人が定年後に家庭に戻ると、妻子に「はい、ご苦労様」と粗大ごみ扱いされて、家庭の中で行き場を失っていく。このような状態を長年許容して、やがて認知症へ進んでしまうのは想像に難くないと思います。

フレディ松川先生の病院では、このような人生を送った人で、早い場合60代後半から認知症が始まっている人もいるといいます。

自分で認知症にならない防止策を

フレディ松川先生は、もしそのような状態の人がいたら、今すぐにでも自分で認知症にならないような防止策を講じてほしいと言っています。

当サイトが考えますに、必要なことはまず、どんな小さなことでも、自分が情熱を傾けられることを見つけたり、趣味に興じたり、あるいはこれまで接してこなかった人たちと交流してみたり、自分から外へ出て行こうとする意欲を持つことから始めるということではないか、と思います。


▲認知症症状.com


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2017
07.24

ありのままを受け取ることができれば、そこに救いがある

Category: 雑記つれづれ


最近、「学校では教えてくれない宗教の授業」という本を読みました。宗教評論家の「ひろさちや」さんという方がお書きになった本です。

とてもためになることが書いてあり、「なるほどなぁ」と抜き書きすることがたくさんありました。

その内容の一部でも、なんとかこのブログでご紹介したいと思っていましたら、「Googleブックス」で内容の一部が読めるようになっていました。

本日のブログでは、その中から私がメモした部分を抜粋してご紹介したいと思います。

タイトル画像にリンクを貼っていますので、どうぞ本ページの方も是非ご覧下さい。

面白いと思われた方は、図書館か古本屋さんで手にして読まれてみたらどうかと思います。

とても良いことが書いてありましたよ♪


▲Googleブックスの紹介ページ

この世は、そもそもデタラメだと心得る

これは何故かと言いますと、世の中はそもそも「デタラメ」だからです。

デタラメとは、「筋が通らない、勝手きまま、いい加減」という意味で使われますが、もともとの意味は「出たら目」です。

サイコロを振って、その出た目に任せることです。

例えば、交通事故が起きる確率は、車の台数によって統計的に分かってくることです。

しかし、誰が交通事故に遭うのかは分かりません。

それらは、まさに「デタラメ」なのです。

そして、神様・仏様のモノサシは、人間から見れば「デタラメ」なのです。

私たち人間の論理やモノサシから見れば「デタラメ」に見えるのです。

さらに言えば、私たちにとって「デタラメ」に映るものが、まさにそれゆえに、神様・仏様の心だということが出来ます。

たとえば、「良いこと」や「良い結果」とは、いったい何でしょうか?

あなたが宝くじに当たったとしましょう。

それは「良いこと」ですね。しかし、そのことによって、かえって不幸になることもある訳です。

もしも宝くじで1億円が当たったばかりに、夫が浮気をし始めたり、親戚縁者が次々とやってきて「金を貸してくれ」と頼まれるかも知れません。

人間関係もまずくなることでしょう。そうなったら、不幸なことじゃないですか?

だから、宝くじがあたることは、必ずしも「良いこと」ではありませんね。

大学に合格することが「良いこと」かどうかもわかりません。

希望通りの大学に受かっても、そこの同級生に意地の悪い奴がいて、苛められるかもしれない。

落ちて一年遅れたために、素晴らしい恋人が見つかるかもしれない。

結局のところ、私たちには、「良いこと」や「良い結果」は、本当にそうだとは限らないのです。

私たち人間には、なにが良いのか悪いのか、何事も分からないのですから、良いことも悪いことも「今いただいたものは、すべて神様・仏様から頂いた」ということにすれば良いと思います。

病気になったら、それは「神様・仏様が病気を下さった」ということです。

どうして病気になったのか、その原因はよくわからないけれど、病気になったのは事実です。

それは神様・仏様のはからいである。神様・仏様のモノサシは私たちには分からない。

だから、「有難いなぁ」と受け取らせて頂くのです。

リストラに遭っても、倒産しても、「神様・仏様から頂いたものだ。有難い!」ということなのです。

起きてしまったのであれば、それは事実なのだから、そのまま受け取るしかない訳です。

それを人間のモノサシだけで判断すると、「それは悪いことだ」と思い込んで、くよくよしながら日々を過ごすことになります。

だから、

「どんなにつらい現実であっても、それは神様・仏様の”はからい”なんだ。」

「神様・仏様は、どういうお考えか私には分からない。」

「しかし、神様・仏様は私たちを幸せにすることを、きっと願っておられる。有難いことだ。」

そのように受け取って生きてゆくところに、救いがあるのではないでしょうか?

ここで、心得え違いをしてはいけないのは、「有難い」と受け取ればうまくいくと考えてしまうことです。

それは、打算的な「はからいの心」です。

そうではなくて、「病気は有難い。治ったら治ったで有難い。治らなくても有難い」ということなのです。

神様・仏様の願いは、「全ての人を幸せにしたい」ということです。しかし、神様・仏様は全ての人に、同じような結果を下さる訳ではありません。

大学の入学試験を例にとれば、定員がある以上、全員が入学する訳にはいきません。

ある人は合格し、ある人は落ちます。誰かが落第しないといけないのです。

しかし、大学に落ちた時、「いま自分の望みは叶えられなかったけれども、これは神様・仏様のはからいだ。有難いな」と、受け取ることの出来る人に救いがあるのです。

私たちは執着が強くて、人間のモノサシにしがみついているので、なかなかそれが信じられません。

しかし、ありのままを受け取ることができれば、そこに救いがあるのです。



病気になったら、病気になったということ

「ありのままを受け取る」とは、「すべての努力を放棄する」ということではありません。

もしも病気になったら、医者にかかり、薬を飲み、しっかりと摂生するのです。

「ありのままを受け取る」とは、病気になったら病気になったということなのです。

病人であることを、そのまま楽しむのです。いわば「幸せな病人」になることです。

「早く治さなければ」と焦ったり、「どうしてこんなことになったんだ」と恨んだり、「もっと良い治療法や病院があるのではないか」と、のたうち回ってかけずり回るのは「不幸な病人」です。

お釈迦様の教えは、「あなた方は、思うがままにならないことを、思うがままにしようとして、苦にしているんだよ。だから、苦にするな」と言うものです。

そして、思うがままにならないことを、思うがままにしようとすることを「努力」というのです。

つまり、それは欲望です。

一方、「精進(しょうじん)」とは、思うがままにならないことを、思うがままにしようとしないことです。

ただ出来るだけのことをやらせて頂く。思うがままにしようとしないで励むことなのです。

いつまでも若くありたいと、厚化粧したり派手な服装をしたりするのが「努力」で、良い年寄りになろうとするのが「精進」ですね。

同じように派手な服を着ているのでも、自分は歳を取っていて、人様に地味な印象を与える、自分の肉体に華がないから、若い時には若さだけで輝いているけれども、歳を取ったのだから、ちょっと派手な服装をして回りを引き立てようとするのが精進です。

私たちは、幸せだから精進できるのです。

不幸だと、一生懸命にムダな努力をしてしまうのです。

*********

以上、本文より一部抜粋でした。


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2017
07.20

ゆる~く生きる

Category: 雑記つれづれ
2016/01/05更新記事


本日のブログテーマは
「ゆる~く生きる」です。

「ゆる~く生きる」というと、
「グータラに生きる」
「自堕落に生きる」というニュアンスで
受け取る人がいるかもしれません。

当然ながら、求道者の端くれのつもりである私が
そんな生き方をテーマに選ぶ訳がありません。

「ゆるい」の反対語は「きつい」です。

そう、私たちの50代までの生き方は
子育てと職場、住宅ローンや老後の備えなどで
本当に「きつい」人生だったのです。

けれども、定年退職をして
住宅ローンも終わり、
子供たちも所帯を持つようになりました。

私たちシニア世代は、もう以前のように
「きつさ」を自分に強いる必要はなくなったのです。

そう、これからの人生は、
頑張ってきた自分へのご褒美の人生です。

だから、もっと緩めなければなりません。

「ゆるく」というニュアンスは、

自分へのキツすぎた「縛り」をゆるめて
自然な状態に戻しましょう!というのが
正確な表現になるのかもしれません。

ゆる~く生きる

そう、今までがキツすぎたのです。
少々ゆるい位でちょうど良いのです。

そういう意味で本日のブログを
お読み頂ければ幸いです。


▲http://shinkokyubiyori.com

つい頑張りすぎてしまう。
無理をして、いつも
限界まで我慢してしまう。

自分自身に厳しすぎる人がいます。

すべてひとりで抱え込んでしまいます。
「もう無理」と、心が折れてしまう前に、
もう少し自分に優しくしてあげましょう。

自分のことを許してあげましょう。

1)いい加減でもいい


自分に厳しく、常に完璧を求めてしまう。
思い通りにできない自分が許せない。

もう少し柔軟に考えてみましょう。
「まぁいいか」と、力を抜いてみましょう。

常に張りつめたままでは、
すぐに息苦しくなってしまいます。

決めつけなくていい。
理想と違っていてもいい。

答えはひとつじゃない。
絶対に「こうあるべき」だと執着しない。

もっといい加減でもいいのです。

2)もっと気楽に生きていい

あれやこれやと考えて、
自分自身で余計なものを増やしてしまう。

あまり難しく考えなくていい。
自分から物事を複雑にしなくていい。
どれだけ考えても先のことはわかりません。

やれるだけのことをやったら、
あとはなるようにしかならないものです。
ときには流れにまかせることも必要です。

人生はままならないものだと受け入れましょう。
必要のないものまで背負い込まなくていい。

肩の力を抜いて、
もう少し気楽に生きてみましょう。

3)焦らなくていい


次の予定、明日の予定。
常に何かに追われて、
目の前のことを楽しむこともできない。

少しのミスも許されず、
立ち止まることも許されない。

周りに置いて行かれないように、
心をすり減らしながら走り続けている。

そんなに慌てなくても大丈夫。
自分のペースで進んでいけばいい。

常識や他人の価値観いに縛られなくていい。
時間に縛られるのではなく、
自分が何をしたいかを考えてみましょう。

もう少し落ち着いて、
のんびりといきましょう。

4)疲れたら無理せず休む

つらくても我慢をしてしまう。
強くあろうとして、
苦しくても無理を続けてしまう。

これぐらいで休んでいられない。
まだまだ大丈夫。

自分を責めて余計に追い込んでしまいます。
だんだん心も身体も疲れが溜まってゆきます。

そのままではいつか限界がきてしまいます。
耐えること、我慢することが強さではありません。

我慢せずに休んでいい。
疲れたときは無理せず休めばいい。

自分を労わる時間も必要です。

5)詰め込まない

空きがあれば足そうとする。
余白があれば埋めようとする。

これもいる。あれもやらなきゃ。
不安を隠すように、次からへと詰め込んでいく。

なんでも沢山あればいい!
というものではありません。

本当に必要なものは、
そう多くはないはずです。

ギリギリまで詰め込むから
すぐに溢れてしまうのです。

持ち物も行動も、
空きがあるくらいがちょうどいい。

ゆとりを持つことで
心に余裕が生まれるのです

6)頑張らなくていい

何かを目指すこと。
何かを手に入れること。

他人と比べるから欲しくなる。
認められようとするから苦しくなる。

見栄や虚栄心を
満たすためだけのものはいらない。
無駄なものを増やすためにがんばらない。

今あるものに目を向けてみましょう。
要らないものを増やさなくていい。

必要のないもののための、
必要のない努力はやめてしまっていい。

7)できなくてもいい

今のままではダメだ、
もっと頑張らなければ。
そうやって自分自身を追い詰める。

自分のことが好きになれなくて、
いつも満たされない思いを抱えている。

出来ないことがあってもいい。
人生は減点方式ではありません。

満点を目指す必要もありません。

人それどれ得意なこと、
苦手なことがある。

できないことを恥じなくていい。
何でも自分ひとりで出来る必要はないのです。

8)頼っていい

出来るふりをするから失敗できなくなる。
強いふりをしていても苦しい思いをするだけ。

弱音を吐いてもいい。
弱さがあってもいいのです。

苦手なことは誰かに頼めばいい。
全てをひとりでなんてできはしません。

頼ることは甘えではありません。
助けを求めることは弱さではないのです。

ひとりきりで生きている人なんていません。

どんな人だって誰かに助けられ、
誰かを助けながら生きています。

人は不完全で弱い存在だからこそ寄り添い、
補い合って生きていくのです。


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気楽に生きるための
魔法の言葉があります。

「まあいいか」という言葉です。

「気に入らないところがあるけれど、
まあ受け入れましょう」ということです。

「気に入らない」というのは否定ですが
「まあいいか」と話しかけた瞬間から肯定に変わります。

「雨が降っている。傘がある。まあいいか」
「服が汚れた。洗濯すれば元に戻る。まあいいか」
「試合で負けた。学ぶことができた。まあいいか」

「まあいいか」と口にすると
元気が出ます。前向きな言葉です。

否定が肯定になり、失敗が成功になるからです。

あなたの日常生活には、
気に入らないことがたくさんあるかもしれません。

「まあいいか」という言葉をかけて、
どんどん前向きに肯定すればいいのです。
いいところがきっと見つかります。

生活がどんどん気楽になり、
ストレスが減っていきます。

悪いと思っているのは、
自分が大げさに悪く考えているだけです。

「まあいいか」と思えば、
実際になんとかなるものです。


▲http://diamond.jp
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『課長島耕作』『黄昏流星群』などの
大ベストセラーを世に送り出し、
40年にわたって第一線を走り続けてきた
弘兼氏に生きる極意を語ってもらいます。
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悩みを抱える。
問題に直面する。
人がうらやましくなる。

人生は、自分の思い描いた通りには
なかなかいかないものです。

そんなとき、

あなたの心の支えとなってくれる
「3つの言葉」をご紹介します。

苦しいときこそ、
この3つの言葉を
思い出していた


生きていく上で、
僕は3つのキーワードをいつも大事にしています。

「まあいいか」、
「それがどうした」、
「人それぞれ、自分は自分」
です。

この3つの言葉を思い描いていれば、
たいていのことはやり過ごすことができます。

最初の「まあいいか」は、
いい意味での諦めを指します。

松下電器時代、上司に怒られることは
たくさんありました。漫画家になってからも、
常に順風満帆で、最高の作品を連続して
描けたわけではありません。

周囲の人とちょっとした
トラブルになることもあれば、

「良かれ」と思ってやったことが、
かえって反感を買ったこともあります。

そんなとき、とにかく僕は
「まあいいか」と思うようにしています。

たいがい人は「どうにもならないこと」を
くよくよ悩んでいるものです。

「過ぎてしまったこと」
「起こってしまったこと」に
いつまでも怒っているというケースも
多いのではないでしょうか。

でもそれは、精神衛生上良くないし、
そもそも時間と労力の無駄遣いではないでしょうか。

「それがどうした」と、
思い切って開き直ってみる


だから僕は、すぐに
「まあいいか」と諦めてしまいます。

そうやって気持ちを切り替えて、
すぐ次のことを始めたほうがいいからです。

その次の「それがどうした」は、
言ってみれば開き直りです。

この記事を読んでいる多くの人も
「些細なこと」できっと悩んでいるはずです。

職場で上司とうまくいかない。
営業成績が上がらない。

友人とケンカをしてしまったなど、
いろんな悩みがあるでしょう。

でも、それはよくよく考えてみれば、
どれもたいしたことではないはずです。

「何かあったって、自分は今生きているじゃないか」
そう思えば、たいていのことはどうでもよくなります。

何らかの策を講じることで
問題や悩みが解決するなら、
すぐに動き出せばいいし、

どうしようもないことなら
「まあいいか、それがどうした」と
やり過ごしてしまったほうがいい。

そうは思いませんか。

「人それぞれ、自分は自分」。
自分と他人を比較してもつらいだけ。


最後の「人それぞれ」とは、
人と比較しないための言葉です。

人間は、自分と他人を比べることで、
どんどん自分を追い込んでしまいます。

例えば、あなたが主任に昇進して大喜びしていても
「同僚が課長になった」と聞けば一気に気持ちが暗くなる。

「なんで俺が主任で、あいつは課長なんだよ」
といった卑屈な思いもわき起こってくるでしょう。

収入や生活レベルにしたって同じ。

別に生活に窮しているわけでもなく、
それなりに楽しく満足した暮らしができているのに、

「あいつは自分より給料が多い」
なんて話を聞くと、
どんどんストレスがたまってくるものです。

僕も松下電器を辞めるときには

「おまえ、収入が下がるぞ」
「みんなが高給をもらっている中で、
自分だけひもじい生活になってもいいのか?」と

よく言われました。

「自分が楽しければ、
それでいいじゃないか」


実際は、収入が落ちるようなことは
なかったのですが、もしあのときに、

「同期の連中に比べて、
俺だけひもじい暮らしをするのは嫌だな」

「そんなの恥ずかしいな」

「プライドが傷つけられる」

などと思っていたら、大企業を辞めて
漫画家を目指すことなど絶対に
できなかったでしょう。

「自分が楽しければ、それでいいじゃないか」
そういう発想があったからこそ、
僕は僕なりの道を歩き始めることができたのです。

自分と他人を比べることに、ほとんど意味はありません。
それどころか、自分自身を苦しめ、
どんどんストレスをためるだけです。

だから人生は

「まあいいか」
「それがどうした」

「人それぞれ、自分は自分」の精神で
生きていったほうがずっと楽しいし、
自分らしくやっていけます。

悩みを抱えたり、問題に直面したり、
人がうらやましくなったときには、
ぜひこの言葉を思い出して下さい。

少しは気持ちが軽くなるはずです。


▲http://shinkokyubiyori.com

私たちは些細なことを
深刻に考え込んでしまいます

考えなければ楽なのに、
いろんなことが気になってしまうもの。

気にしない、気負わない。

迷ったときは「まあいいか」
困ったときも「まあいいか」

悩みなんて放り投げてしまえばいい。
苦しみなんて捨ててしまえばいい。

力を抜いて生きてみましょう。

そうすれば今よりも
生きるのが楽になるはずです。

まあいいか

私たちはひとつの失敗を
大きく考えしまいがちです。

小さなことをいつまでも
引きずって落ち込んでしまいます

失敗なんて誰にだってあります。

生きていれば
上手くいかないことも沢山あります。

思い通りにしようとするから
許せなくなる。

「こう」じゃないと、
決めつけてしまっているから納得できない。

なったことは仕方がない。

どんな現実でも「まあいいか」と
受け入れてみましょう。
過ぎたことは気にしない。

変えられないことに囚われない。

嫌な想いをわざわざ
持ち続ける必要なんてありません。

しがみつかずに置いてくる。
後悔からは何も生まれません。

大切なのはこれから何をするかなのです。

我慢しなくていい

人は他者との関わりの中で
生きています。

自分を守るため、
人から批判されないように気を張ってきた。

必要以上に空気を読んで
周りに気を使いすぎてしまう。

他人の目を気にして人から
どう思われているかばかり考えてしまう。

「こんなこと言ったら嫌われるんじゃないか」
「自分だけおかしいと思われるんじゃないか」

自分を抑えて、言いたいことを我慢して耐えてきた。

そうやって窮屈で苦しい生き方を
もう選ばなくていいのです。

私たちは他人の期待に応えるために
生きているのではありません。

自分の生き方を決めるのは自分自身です。
少しぐらい違っていてもいい。

他人からどう思われたって気にしない。
あなたの人生は、あなたの望むように
生きていいのだから。

気にしない・気負わない

失敗しないように張り詰めて、
損をしないように目を光らせて、
私たちはいろんなことを気にしすぎ。

いろんなところに気を使いすぎなのです。
もう少しいい加減でもいい。

もっとわがままに生きていい。

「こうしないとダメ」
「これがないといけない」

勝手に人生のハードルを上げて、
自分から苦しむ必要なんてありません。

深刻に考えたからといって
物事が上手くいくわけではないでしょう。

考えてもどうしようもないことは考えない。
気にしても仕方がないことは気にしない。

人生はそれほど
複雑でも難しいものでもありません。
肩の力を抜いて生きることを楽しんでみましょう。


▲http://thinking.shiawasehp.net

小さいことで、くよくよ・イライラしないための
いちばん簡単で役に立つ考え方は、「まぁいいか」です。

小さいことに、くよくよ・イライラしそうな時に、
「まぁいいか」の一言が自ら言えるだけで
くよくよ・イライラを軽く済ませることができます。

小さいことは「まぁいいか」で済ませていいはずです。

でも、くよくよ・イライラしやすい人には
「まぁいいか」の一言がなかなか言えないのです。

きっと多くの人は、くよくよしてしまうことは
自分にとっては「大きいこと」だと思っているのです。

だから「小さいことにくよくよするな」と言われても、
自分の問題には当てはまらないと考えてしまいます。

または、自分が「小さいこと」にくよくよしているのに
気づいていないのかもしれません。

「小さいこと」でも、そのことを繰り返し考えて
悩ましい時間が長くなると、自分の心の中では
「大きいこと」になってしまうのです。

だから、「小さいこと」のうちに
軽く済ましてしまうことが大事なのです。

今自分の心の中で「大きいこと」でも、
人生の中では「小さいこと」があります。

人から見たらささいなこともたくさんあります。

私たちが、くよくよ・イライラしてしまうことの多くは
「小さいこと」なのです。

考え方しだいで「小さいこと」に
変えることができるのです。

「まぁいいか」という考え方を使うメリットは、
まずその一言でラクになれることです。

その事を問題化しないことにより、
何もしなくてもよくなるのです。

問題化してしまって、その解決がうまくできないと、
そのためにまた、くよくよ・イライラしてしまうことになります。

また、くよくよ・イライラしていたはずの時間を
他のことに使えるというメリットも大きいのです。

くよくよ・イライラしてしまう
要因の一つは、完璧主義です。

小さいことに対して「まぁいいか」と
思えないというのもその現れと言えそうです。

「まぁいいか」は、ちょっといいかげんな
考え方かもしれません。

でも、すぐに忘れてしまうような
「小さいこと」だったらそれで
いいのではないでしょうか。

「小さいこと」と「大きいこと」では
考え方を変えたほうがいいのです。

「小さいこと」に、くよくよ・イライラしながら暮らすのと、
「まぁいいか」とラクに暮らすのとどちらがいいでしょうか。

「小さいこと」に正しさや立派さを求めるより、
いい加減さがあったほうがいいのではないでしょうか。


▲http://ameblo.jp

【第一段階】
自分を肯定する


自己否定感が強い=自己評価が低いと
ネガティブ思考になりやすく、
悪循環にはまることも多いと思う。

それにはまず、自分の存在を肯定することが
何より大事である。

どんな自分でも存在していい、
ありのままでいい、無理して変えようとしなくていい。

大体、人間の性格や思考回路なんて
そう簡単に変わるものでもない。

焦って急いで変えようとすると
どうしても無理が出るし、どうして変われないのかと
自分を責めたりおとしめたりしがちになってしまう。

それに何事も一長一短であって、
一見悪いように見えるところも
裏返してみれば良いところでもある。

短気は実行力があると言えるし、
恐怖心が強いのなら警戒心が強く
慎重であるとも言える。

頑固なのは一貫した主義があって
職人向きだったり、

怠けやすいのは
のんびりさんでマイペースだったり。

適材適所という事を考えれば、
どんな人も必ずどこかに
ピッタリはまる場所があるはず。

なければ作ればいい。

そして、良いところも悪いところも含めて
「自分らしい」という事を理解してもらいたい。

自分らしい自分を誇りに思って欲しい。

世界にたった一人だけの
特別な存在であることを知って欲しい。

と言うわけで、実践の第一段階として、
今のままの自分を諦める
=ありのまま受け入れるという意味で、
どんな思考が湧いても「まあいいや」と思うこと。

特に苦しい事、悩ましいこと、ネガティブな思考、
湧いてくる負の感情、恐怖など、

心に良くないことは、徹底的に諦めて受け入れ、
そのことに囚われないこと。

囚われることがいかに心に悪く、
そして時間の無駄であるかわかるはず。

※以下のような項目に一つでも当てはまる人は、
まずこの第一段階を徹底的にやって欲しい。

・自分を責めてしまいがちな人
・他人にどう見られているか気になる人
・自分はダメな人間だと思っている人
・自分は人間としておかしいと思っている人
・自分が存在しない方が
 周りの迷惑にならないと思っている人
・死にたい人
・自分の欠点が許せない人
・変わらなきゃいけないと強く思いっている人
・焦ったり、恐怖に追い立てられている人
・自分は甘えているとか怠けているとか思う人
・鬱病やその他精神的な病気を持っている人
・自信がない人
・なにをやってもうまくいかないと思っている人
・やる気が出ない人


【第二段階】
前向きになるために諦める

第一段階を進めていくうちに、
自分を肯定することで心と体がリラックスして、
自信も付いてくると思う。

前と世界の見方が変わっていると
自分でもわかるほどに
変わっているんじゃないだろうか。

さて第二段階は、
より前向きに行動するためのススメである。

方法は簡単で、
ネガティブな発想を諦める事それだけ。

例えば、何かをしようと思ったが
面倒くさいと思ったとしよう。

この「面倒くさいな」という気持ちを諦める。

そうすると、
「面倒くさいけどまあ仕方がないな」と
思えてこないだろうか。

そう思えたら、行動する気が増すと思う。
少しでもいい。

思えなかったら思えなかったでいい。
そこに囚われる事はない。

やっぱり出来ない、怠け者だと
自分を責めたりしちゃいけない。

そういう思考が湧いてくるようなら、
一度第一段階に戻って自分を肯定することに集中する。

もし期限付きの事が
どうしても出来なかったとしても同じ。

「出来なかったけどまあいいや」
「怒られるかも知れないけど仕方がない」
「やる気がでなくて出来なかったのは事実なんだから」

といった具合。

自分が「これは本当にやった方がいいな」と
思うことなら、いつか必ずやる。

ただ今はそういう気になれないだけ。
仕方がない。

【第三段階】
人付き合いを上手に
行うために諦める


第二段階が習慣づいてくれば、
自分の事に関してはかなり許し受け入れ、

悩んだり自分を責めたりする時間がぐっと減って、
自分がしたいことを行動に移す事が
主体になってくるはず。

第三段階では、「まあいいや思考法」を世の中で
一番重要な「人付き合い」に利用する。

とにかく世の中不条理なことが多く、
他人に理不尽な思いをさせられたりする事が
多いと思う。

また人の目や自分の欠点などが気になって、
思うように自分を前に出せなかったりする人も
多いだろう。

思い通りに行かないと、
ストレスがどんどん溜まっていって

イライラしたりするし、
悪ければ心身の病気を引き起こすこともある。

今現在病気を抱えている人もいるだろう。

そんなときにもやはり諦め=受け入れが肝心である。
意見の合わない人、威圧的な人、筋の通らない人、
無茶な注文ばかりつけてくる人、世の中いろいろいる。

でもそういう人に対して、いつまでも腹を立ててたり、
無理やりにでも変えてやろうとか報復したいとか
思っても仕方がない。

腹を立てても、自分の胃が痛くなるだけだろうし、
変えてやろうと思ってもそうそう変わるものじゃない。

報復したいと思っても、人間なかなか
人道を外れる事ができないし、

出来たとしても
結果が割りに合わないことのほうが多いだろうと思う。

極端な例えだが、嫌なやつだからと
いじめて自殺でもされたとしたら、
それでせいせいするだろうか?

到底そうとは思えない。

だから、
「そういう人もいるんだ」
「まあいいや」って思ってしまおう。

世の中にまったく同じ人は絶対いない。
育った環境などが違うから当たり前だ。

自分が自分の世界でしか物を見れないように、
相手も相手の世界でしか物を見れない。

見方も考え方も違って当たり前だから、
当然衝突する人もいるだろう。

だから仕方ない。

自分と違う人がいるということを
受け入れる。囚われない。

何か言われたりやられたりして
ついカッっとなったとき、一瞬でいい、

「まあいいや、こういう人もいて当たり前なんだ」
と思えれば、不毛な争いを回避できる可能性が高くなる。

また、諦める事で後に残りにくくもなる。

合わない人とは事務的な会話をするだけでいい。

変に絡んだりしなければ、
お互い嫌な思いをする事も減る。

返って適度な距離が開いて、
今までよりよい関係になることもあると思う。

さて大分長々と書いてしまったけど、
読むのが面倒という人もいるかと思う。

けどまあいいや、だw

本当に悩んだりして困って、
何かを得たいと思って

いつか読んでもらえるかもしれないし、
まあいいや思考法が自分に合わない
という人もいるだろうから。

まあいいや思考法が、
少数でもかまわないから

誰かの何かの役に立てれば、
俺はそれでまあいいと思う。


▲http://shinkokyubiyori.com/simple

「ゆるく生きる」という考え方が
できない人がいます。

「これしかダメ」
「これじゃないと認めない」

絶対に「こう」と決めつけて
身動きがとれなくなっている。

こだわりが強くて、
自ら生きることを難しくしてしまう。

もっと気楽に生きていい。
進めば花道、住めば都。

何を選んでも、
それがあなたにとっての正解になるのです。

※「これがいい」より「これでいい」

「これがいい」という強い思いは、
ときに大きな力につながります。

だけど往々にしてその思いは、
私たちから心の余裕を失わせる。
視野が狭くして自ら選択肢を狭めてしまう。

こだわりが強すぎて、
柔軟な考えができなくしてしまいます。

人生に疲れたとき。
生きることが窮屈に感じたとき。
もう少し心を柔軟にしてみましょう。

心をゆるめて他の道にも目を向けてみましょう。
ひとつの選択にこだわる必要なんてありません。

「これがいい」より「これでいい」
「まあ、これでいいか」

それぐらいの軽い気持ちで選べばいいのです。

どれを選択しても同じように楽しいし、
同じぐらい苦労もあります。

大切なのは何を選ぶかより
選んだ道をどう生きるかなのですから。

こだわらずにゆるく生きること。
決めつけずに気楽に生きることです。

※決めつけない柔軟さ

時間をかけて準備しても
うまくいかないときがある。

軽い気持ちではじめたら
うまくいくときだってある。

人生なんてどうなるかわかりません。

決めつけてしまうと、
そこに心が囚われる。

だからこそ、
どうなってもいい心構えでいることです。

先入観や固定観念に縛られない。
心を常にニュートラルな状態にとどめておくこと。

あれこれ考えたって、
なるようにしかならないのが人生です。

なんだかんだと、なるようになるのが人生です。
どうせ考えたって先のことはわかりはしません。

「まあいいか」
「なんとなくこっちに行ってみよう」

気の向くままに進んでみればいい。

少しぐらい、いいかげんでも
案外なんとかなるものです。

※ゆるく生きる

絶対に成功する方法も、
必ず上手くいく生き方もない。

はじめから正しい選択なんてないし、
どれを選んでも間違いじゃない。

いろんな道があって、
いくつも方法は用意されています。

目的地はひとつでも、
そこへ向かう道はひとつだけじゃない。

どこに進んでも私たちは
幸せに生きていくことはできるのです。

難しく考えなくていい。
行く宛も、目的さえも必要ではないのです。

向かった先に思いがけない出会いがある。
ふと立ち止まった先で思いもよらない発見がある。

人生はままならないものです。

なかなか思うようには進んでくれないけれど、
だからこそ生きることは面白い。

のんびり行こう。
楽しみながら歩きましょう。

人より早くゴールを目指すのが人生ではありません。
もっと自由に、もっと力を抜いて行きていい。

「ゆるく生きる」を意識してみてください。


▲http://matome.naver.jp/
2016/01/05更新記事
「ゆるい」と「サボる」は違う

ダラダラとサボることは、その場に停滞すること。
「ゆるい生き方」とは、ゆっくり構えながらも
目的地に向かって確実に前進すること。

仕事については、徹底してスピード化や効率化を考え、
最短距離でゴールを目指す。

プライベートではしっかりとゆるさを保つ。
仕事時の考え方に染まることなく、考え方のスイッチを切り替える。

<思考編>-------

①仕事上の問題は
「正しいか/正しくないか」で判断する。


②プライベートの問題は
「楽しいか/楽しくないか」で判断する。


③プライベートに論理を持ち込まない。
※論理性や合理性を考えすぎると、
 他者に寛容でいられなくなる。

④物事に白黒つけない
※なんでも白黒つけようとする生き方は
 精神的に疲れるし、
※周囲の人も疲れる。グレーゾーンの存在を認め、
 そのグラデーションを楽しむくらいの気持ちで物事にあたる。



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2017
07.17

自分との対話

Category: 雑記つれづれ
2015/08/15更新記事


■自分との対話をより良いものにして、最高の自分を作っていく方法

普段、自分とどんな会話をしていますか?

人は普段から自分と会話しています。

「こうしたほうがいいんじゃないか」
「これはどうなんだ」
「どうすればいいんだ」

人によってそれぞれ違います。

ですが、その中にも健康的ではない会話もあります。

たとえば、

「自分はなんで出来ないんだ」
「なんて自分はダメなんだ」
「もうだめだ」など、

聞いているだけで力が弱まってしまうような会話です。

何が怖いかというと、こうした不健康な会話を自分とし続けることが、自殺や殺人、事件などにつながるからです。

自分のことを痛めるような会話ばかりしていると、自信がなくなってしまいますし、

相手を痛めつけるために、自分のモチベーションを高める会話をすると狂気が湧いてきます。

このように、自分との会話を上手くしないと、いつのまにかひどい状況になるということも少なくありません。

■健康的な会話とは?

不健康な自分との会話を続けることで、取り返しがつかないほど力があるということは、健康的な会話を続けることで、自分が思ってもいないような嬉しい結果を出すことが出来るということになります。

事実、有名人やスポーツ選手などは、自分を高める会話が非常に上手いです。

だから、普通の人が諦めてしまいそうな時でも楽しそうにこなしてしまう理由の1つでもあります。

たったそれだけのことで凄いことが出来るというふうに思える人は少ないかもしれませんが、自分との健康的な会話は大きな力を持っています。

スポーツ選手を例にとると、普通の人は「なんでこんな辛い練習をしているんだろう」という会話を自分としているのに対して、

一流になっていく人は、「これをやることでより理想的な自分になれる」など、自分を高める会話をしています。

人は、自分と他人との会話を通して現実を認識します。

なので、同じ状況でも寂しいと感じる人もいれば、面白いと感じる人もいるわけです。

どちらが自分の良い状態を引き出せるかは明確でしょう。

■癖は身につけることが出来る

とはいっても、今まで不健康な会話を自分としていた人にとっては、中々変えることが出来ない、面倒くさいと感じてしまう人もいるでしょう。

ですが、そうして日々を過ごしているときでも、常に自分との会話は続けられ、気付いたら嫌な気持ちになっていたりするものです。

これを変えるには癖をつければいいのです。

たとえば、「なんで自分はだめなんだろう」という会話をしていたら、その次に「そして、なぜ自分は素晴らしいのだろう」と会話をしてみてください。

それを続けると、不健康な会話をした後に健康的な会話をするという癖がつき、だんだんとそれが定着していきます。

不健康な会話をしたと思ったら、すかさず健康的な会話をしてみてください。

それが一連の流れの癖となって身につけることが出来るでしょう。

■話したことが自分の現実になる

自分が痛いと感じることを、他の人は気持ちがいいと感じることはあると思いますか?

たとえば、自分は痛いと思う整体や鍼灸、電気風呂などのリラックス関連をはじめ、筋力トレーニングや辛い練習などは、他の人が夢中になって取り組むことでもあります。

これは生まれつきトレーニングが好きとかではなく、どこかの時点で好きになったといえます。

そこには健康的な会話があったことはいうまでもありません。

仮に好きなことをやっていても「なんで俺こんなくだらないことやってるんだろう」などの不健康な会話をしていれば、いつかそれは好きではなくなるでしょう。

それだけ自分との会話には力があります。

好きだったことを嫌いにしてしまうほどの。

好きなパートナーと別れることも一言で完了するでしょう。

ですが、パートナーと付き合うことも一言で完了します。

これは、自分の気持ちが高まるといった人生の一部のことに限らず、話したこと自体が自分の現実を作るといえるほどです。

なので、自分との会話が健康的な人が他の人より凄い結果が出るのはそういう原理といえます。

■言葉をマスターする

ある意味、人は言葉という凄いツールを持っているのに、そのツールを使いこなせず振り回されているといえるでしょう。

人によっては自分の人生を終わらせたり他人を傷つける原動力になっているほどです。

ですが、健康的な言葉をマスター出来れば、どんな状況にいても自分の現実を変えることが出来るといえます。

そのためには、どんな言葉が自分の状態を引き上げるか、得たい感情を得られるか、他人の原動力になるか、他人を幸せにするかということを考えて、実践していくといいでしょう。

もちろん最初は上手くいかず、自分も周りも振り回すことになるかもしれませんが、大切なのは常に健康的な会話を自分にし続けることです。

すると、だんだんとアイディアが磨かれてきて、よりよい現実を作りだすことが出来るようになるでしょう。

本当の意味での神との対話

エゴに気がつく方法としては、ネガティブな感情が上がってきたとき、

「なぜ自分はこんなに悲しいのだろう?」

「なぜこんなに自分は怒っているのだろう?」

とその感情を観察し、掘り下げてみることをおすすめします。

掘り下げていくことで、その根っこ、原因が見えてきます。

それに「気がつく」ことです。

気がつき、観察するのです。

受けれいる、手放す、それができる人はやってみてください。

できなくてもいいです。

気がつくこと。

それだけでも十分です。

~~~~~~~~~~~~

観察、掘り下げを一度やっただけでは気がつかないかもしれません。

原因が見えても、すぐには楽にならないかもしれません。

情況や体調が変われば、「また君か!」と同じようなネガティブな感情が、上がってきたりもします。

それは、その情況や体調(パターン)によって生まれる、反射・反応(感情)なのです。

したがって、その都度対応していくことが必要です。

何度でも繰り返し、自分の感情と向き合う、掘り下げる、そして気がつく。

それが自分との対話、本当の意味での神(自分)との対話だと思います。

特別な人だけ、選ばれた人だけが神(自分)と対話できるわけではありません。

誰でもできるのです!

神様は差別はしません。

~~~~~~~~~~~~

あなた(神)が、自分で設けたゲームのルール、

あなたがかけた思考の鎖をほどくことができるのは、他の誰でもないあなた(神)です。

ほら、いますぐ神(自分)と対話をしましょう。

神との対話を、この制限解除のゲームを楽しみましょう♪

自分(神)に語りかけましょう♪

■大切な自分自身との対話

メンタルをコントロールして上で、大切なこととして、自分自身との対話があります。

その方法の一つとして、「ノートに思ったことを書き綴っていく」というものがあります。

リラックスした状況で、特に深いことは考えず、ただただ浮かんでくることを書き記していってみてください。

アウトプットとして、「書く」ということで、押しとどめていた感情を外に出すことができ、気持ちは随分と楽になります。

また、その感情を外に出したことで、さらにその下にあった感情が現れてくることもあります。

一番上にある感情が邪魔をして、下でくすぶっている感情が出てこれない状況になっていることもあります。

そういった感情に気づくことで、核心的に何に対してストレスを感じているのか?

何に対して不安を感じているのかといったことが見えてくるのです。

「上司の会議での発言が腹たった。自分が責められているように感じた。」

「契約をとることはできなかった。でも、心の広い価値観の方に出会えて勉強になった」

「最近、面白いことをしていない。週末はどこかに遊びにいきたい」

「忙しすぎて、飲みにいくこともでいていない。無理やりにでも同期を誘ってのみにいきたい」

など。何でもいいのです。

自分のありのままの感情をつづることで、ふと 内容を読んで、自分が考えていることを客観的に見られるようになるのです。

また、「書く」というアウトプットは、今のご時勢では、面倒なことかもしれません。

なので、パソコンなどを活用して入力し、履歴を残していくことも有効です、 

しかし、敢えて「書く」ことをお奨めします。

「書く」ことは、入力よりもアウトプットは早いですし、履歴で見返してみれば、内容だけでなく、文字だけでその時の感情を把握できるため、データでの入力よりも情報がたくさんあるのです。

イライラしていたり、やる気がでていなかったり、楽しかったり、嬉しかったり、そういったメンタルは書いた内容だけでなく、文字からも見えてくるのです。

一日一回、場所や時間を見つけてやってみてください。

心の中にある客観的な自分を知ることができ、自分の核心的な本質と向き合えるようになるのです。

限られた時間なのに、もったいないと思われるかもしれませんが、しかし、まずは自分の感情を「知る」ということは非常に大切なことです。 

自分を知れば知るほど、その対処方法が効果的になるからです。



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