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動機は不純でもいいから、善行を愉しもう!


http://plaza.rakuten.co.jp/hamabira/

私の昨日のブログ「徳の積立貯金」に対して、
ソウルメイトであるローズコーンさんより早速、
ピリッと辛口の「愛のコメント」を頂戴しました。

貴重な「お題」を頂いた気がしたので、
今日は「善行」について書いてみます。

----------------------------
徳を積む話 信じますよ。
でも、先の世のために、孫や子孫のためにと
思うのならわかりますが、
自分の来世のためにと考えて徳を積むというのは、
なんか計算高く、功利的であるような気がします。
そんなことを考えず、心から今やりたいからやり、
それが徳を積むことになるのは最高だと思います。

----------------------------------------
ローズコーンさんらしいまっすぐなコメントを読み、
すごく清々しい気持ちになりました。

確かにその通りです。
善行は、欲得づくめでやるものではありません。

見返りを求めず、人のためにやるのが本当の善行です。

けれども、ピュアな動機や真心から行った善行ほど、
程度の低い人の心ない一言で傷つきやすいのも事実です。

この世には、残念ながら
人の好意を有難く感謝できないバカがいるのです。

そんな程度の低い人の無神経な振る舞いに
私の魂の同志であるあなたが傷つくのは耐えがたいことです。

だから、私は昨日のブログでこう書いたのです。
「あなたの善行は、あなたの来世の運勢をより良くします。」
「だから、年寄りぶらないで(笑)、惜しみなく善行を続けましょう!」

善行は続けることに意味があります。
途中で止めてしまったら、単なる「気まぐれ」となります。

感謝されなくても続けることに価値があります。
動機なんて不純でも良いから、善行を心掛けましょう!

これが私が昨日のブログで
真に言いたかったことなのです。

まずは、下記の事例をお読みください。



■あなたの善行が試される時


あなたが、あるカルチャー教室に通っているとします。
愉しい2時間が終わり、帰る時間となりました。

あなたは、ふと備品置き場のホコリに気づきました。

「先に帰ってて。私ここをちょっと掃除してゆくから…」

すると、仲の良いAさんがあなたにこう言います。
「そんなの教室のスタッフがやる仕事じゃないの?」
「だって、私達が次回気分よく過ごせるじゃない」

あなたは、一人黙々と備品置き場を掃除し始めます。
そしたら、ゴミ箱も気になりました。

そんな風にして、あなたは
カルチャー教室の掃除をして帰ることが習慣になりました。

しかし、ある時、教室仲間のBさんがこう言い出します。
「この前、備品置き場の下の方が汚れていたわよ!」

あなたの善行は、いつの間にか義務と思われていたのです。
「なんて言い草!ボランティアでやっているのに!」

まさに、あなたの「善行」が試される時です。

あなたのピュアな気持ちが、
感謝を知らないバカの一言で傷つけられたのです。

実はそこが正念場なのです。

そこで「やーめた!」というのも自由です。
しかし、「これは自分のためにやっているんだモン!」と
軽く受け流してやり続けるのも自由です。

感謝されなければ止める好意など「徳」ではありません。
感謝を前提にしてはいけないのです。

だから、「徳」って難しい修行なのです。
続けてゆくためには、覚悟がいるのです。

意地になって無理に続けることでもありません。
自己犠牲の上の善行なんて「徳積み」にはなりません。

見返りを求めないで善行自体を愉しむという覚悟がなければ、
「徳」を積み続けることは難しいのです。

自分の来世への積み立てのためにやる善行。

確かにそれは、ローズコーンさんが指摘するように、
どこか「計算高く功利的」な匂いはします。

だけど、そこで止めてしまったら、
自分のピュアな心がズタボロになってしまいます。

みんなが気分良く過ごせるからと
一度始めた掃除なら、続けて欲しいのです。

例え、心得違いのバカが何かを言いだしても
機嫌よくその善行を続けるためには、
強い強い心の支えが必要です。

それが、「来世のあなたの得のため」という
私の応援歌だったのです。

誰かの為に何かをしてあげると言うのは、
行動としては素晴らしい事です。

やってもらった人も嬉しいですし、助かります。
間違いなく、善行は美徳です。

しかし、現実には善人ばかりではありません。
「あの人がやっているから、私はやらなくても良いじゃん!」
そんな不心得者が出てくるのです。

そんな時に、サラリと余裕で受け流して欲しいのです。
「好きでやっているんだから気にしないで!」

感謝されなくてもやり続けるためには、強い動機が要ります。
動機なんて不純でも構わないというのが私の持論です。

その善行自体に意味があります。
その善行を続けること自体に価値があります。
その動機は不純でも、その善行の尊さは同じです。

熱中症になりそうな強い日差しの中で
あなたのパンツを干してくれる奥さんに感謝する。

バス停で並んでいる時に足元に落ちているゴミを
さっと拾って後でゴミ箱に捨てる。

通りがかりの駐輪場で、子供の自転車が倒れていたら
ひょいと起こしてあげる。

自分の方が年上でも、真っ先に職場で挨拶をする。

向きあった相手には、いつもにこやかな笑顔を心掛ける。

スーパーのレジに行列が出来ている時にこそ、
係の女性に「いつもありがとうね」と声をかける。

善行とは呼べないほどの、何気ない心遣いでも
意識して続けることに意味があり、価値が生まれます。

動機の不純さなど、神様は大目に見てくれるはずです。



■本当の「徳」は、自分が一番愉しい!

かなり昔の話になりますが、
テレビで海外のどこかの村の話をやっていました。

その村は、1時間かけて山を降りて
小川まで水汲みに行かなければいけない村でした。

映像では、小さな女の子が18リットルの水を村に運ぶために
往復2時間の山道を、延々と歩く姿が映し出されていました。



突然人さらいが出てきて、
どこかに売り飛ばされたらどうしようと思うと、
怖くなる時もあるけど、家族のために水を運ぶのが愉しい!


屈託のない笑顔で、その少女はそう答えました。

これが、本物の「徳」だと思うのです。

自分は人の役に立ててるという喜び。
今日もサボらずにし終えたという達成感。
自分が愉しいから続けられるのです。

■情けは人のためならず

情けは人のためになるだけでなく、
巡り巡って自分への報いとしてかえってくる

だから、惜しまず親切にしましょう。
というのが本来の意味。

動機が不純であっても、いつもニコニコ出来て、
人に優しく出来るのなら、神様は大目に見てくれるに違いありません。

いつも、自分や他人に対して温かく柔らかくありましょう。
それで、自分自身がいつも機嫌良くいれたら何よりです。

そうなれば、もう徳の貯金のことさえどうでも良くなるかも知れません。
善行を心掛けるという行動の形から始めましょう。

それが書きたかったことです。

昨日のブログの言葉足らずをお詫び致します。


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No title

おはようございます。どうもご丁寧な回答をいただきまして、心から感謝します。
またわざわざ途中下車させましてもうしわけありませんでした。

年寄には年寄りの善行の積み方があるという言葉うれしかったです。今は何も人に役立つ善行ができていないと感じていますので、申し訳ない気分でいましたが、今日の文章を読んで、納得しました。

徳は修行なり、生きるは修行なりの言葉が身に沁みます。

自分のできる、ほんの小さなこと、たくさんの買い物をした私のすぐ後ろにたった1個の商品を持った人がいるとすれば、その人を先に譲るとか、私より年上の人に、ちょっと手助けしてやるとか、小さな子供に微笑みかけるとか、夫にやさしく物言うとか、
思えばいくらでも徳を積むことができますね。

今朝はなぜか、一番にページをあけました。いつもは最後の楽しみにとっておくのですが。こんな会話ができるソールメイトができて幸せです。ありがとうございました。
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