あなたが人生で起こるドラマの観客です。

 

年末になると、
テレビは特番が多くなります。

本日、転載してご紹介するサイト記事は
年末の特選記事です。

ブログ作成のために、
この数日検索している間に出会った
とても興味をそそられる記事です。

さらりと一度読んでみて、

「これは何度も読んで
ぜひ取り入れたい
素晴らしい考え方だ!」


そう、強く思ったので、
本日転載することにしました。

正月休みにじっくりと読んで
普段の暮らしの中に取り入れてゆこう
そんな気になった記事です。

良かったら、あなたも
ぜひ読んでみてください。

いつもより長い記事になりますが、
とても興味深いことが書いてあります。

では、さっそく転載致します。


▲ http://108.houhu.net

そう、現実とは「幻想」です。
あなたの内部から投影された
立体映像のようなものです。

ところが幻想であるはずのこの現実に、
我々は絶えず翻弄されています。

楽しい現実、嬉しい現実もあれば、
辛い現実、悲しい現実もあります。

単なる幻想であるはずの現実に、
我々は始終脅かされているのです。

これがテレビドラマの中での話であれば、
たいした問題ではありません。

一時間程度、その世界に浸りきって
充分にドラマを堪能すれば、
それでオシマイです。

来週のこの時間を楽しみにしながら、
我々はその世界を後にします。

そして、安心できる
自分の本当の現実に戻ってくるのです。

しかし厄介なことに、
テレビドラマではない
「自分の本当の現実」においても
様々なドラマが待ち受けています。

そしてそのドラマの主人公は、
正真正銘の自分自身です。

これ以上の臨場感はありません。

巨大なスクリーンと高度な音響設備を備えた
映画館であっても、この「現実」という
上映設備の迫力には遠く及びません。

この「現実」というドラマは、
あなたが生まれてから現在に至るまで、
ずっと休むことなく上映され続けています。



早送りも巻き戻しも出来ません。





「ちょっと休憩」と言って、
中座することも許されません。



決して途切れることなく、
我々はこのドラマの主人公を演じ続けています。

現実が我々にとって、
好意的に解釈できるものであれば、
それもいいでしょう。

ところが、
現実とは往々にしてそうではありません。



不愉快なことが一杯起こります。
耐え難いような出来事も、
一生のうち一度や二度ではないでしょう。

「なぜ、これほど苦しい現実を
味わう必要があるんだ。もうたくさんだ!」

こう言って鑑賞するのを中止し、
劇場を後にすることはできません。

それは死を意味するからです。
実際の映画であれば、それは自由です。

そうであれば、
そもそも鑑賞前に作品を選ぶことが出来ます。

事前に「どのような映画であるか」
内容をチェックして、自分の趣味・嗜好に
合うものを観に行けばいいわけです。

観に行って気に入らなければ、
鑑賞を途中で中止することも自由です。

別の作品はいくらでも上映されていて、
もっと面白そうな映画はたくさんあります。

公開中のロードショー以外にも、
ビデオレンタル店には過去の作品が
いくらでも置いてあります。

テレビでも毎週何本も放映されています。
あなたにとってお気に入りの一本に、
必ず出会うことが出来るでしょう。

しかし、この「現実」は
あなたにとって唯一のものです。

あなたが気に入ろうが気に入るまいが、
容赦なくその「唯一のストーリー」を
突きつけてきます。

それが「人ごと」ならともかく、
主人公はあなたです。

体験しているのは
唯一の主人公であるあなたなのです。

あなたはジェットコースターの
先端に縛り付けられ、

次から次へと
ものすごい勢いで迫ってくる

ど迫力のシーンを目の前にして、
恐怖にうろたえるばかりです。

これは拷問です。
もはや罰以外の何物でもありません。

これが人生というものなら、
全く楽しくなんてありません。

一刻も早く終わらせたいと
思って当然です。



私は先に
「ドラマを見終わったら
安心できる現実に帰ってくる」
と書きましたが、実際には
まるであべこべです。

むしろ
ドラマを見ている時間の方が、
人によってはつらい現実から
解放されるオアシスのような役目を
果たしているのかもしれません。

この「現実」という
ドラマのシナリオライターは、
一体どこにいるのでしょう。

見つけて一発か二発…
いや、ボコボコにぶん殴って
やらなくては気が済みません(笑)。

主人公という幻想…さて、
何となく展開が読めてきた気が
しませんか?

あなたはおそらく、
私が今からこんなことを書くんだろうと
思っています。

実は、この現実という
ドラマのシナリオライターは
あなた自身です。

全ての現実は、あなた自身が
創造しているものに他ならないのです。

だから、
あなたが自分でシナリオを
書き換えさえすれば、

現実はあなたの望むように
展開していくのです。

そんな方向にこの記事の展開を
誘導していくのは簡単です。

しかし、スピリチュアルの世界では
この手の話はイヤという程に
説かれてきました。

もうお腹いっぱいだ!
という方も多いと思います。

そこで今回は、ちょっと別の方向に
展開を試みてみようと思います。

「現実」は、
あなたが創造しているものではない。

この現実世界に生きる他者や
あらゆる現象によって、

あなたとは無関係に
刻々と生み出されているものだ。

現実は、
あなたの内面とは一切関係がない。

あなたが何を考えているかということと、
実際の現象化との間には、
なんら関連性はないのだ。

あなたが現実に対して
取り組んで成果を出せる部分は一切ない。

なぜならあなたは
創造主などではないからだ。

あなたはただ次々と展開する現実に対して、
楽しい、辛い、面白い、恐ろしい、などと
感想を洩らすことだけで精一杯だ。

とすれば、あなたが現実に対して
出来ることは何もない。

あなたに出来ることは、
それを充分に体験し、感じることだけである。
あなたは観客に過ぎないのだ!

どうでしょうか。

「現実とは幻想である」
「内部から投影された
立体映像のようなものである」という

最初の主張と同じ地点に
行き着いてしまいました。

正反対の立場を取ってみても、
結論は同じなのです。

「自分はこの現実の主人公だ」
これは真実のように思えます。

あなたは現実を「あなたの観点」でしか
捉えることは出来ず、その意味で

あなたは自動的に主人公という立場を
取らざるを得ません。

しかし、

上で述べた立場に立って考えると、
これはおかしなことです。

あなたが主人公なら、
常にドラマの中心にいて、

現実の展開に大きな影響を
与えていなくてはなりません。

しかし、

上記の前提通りだとすれば、
現実とあなたは「無関係」であり、

あなたの思考は、現象化に
影響を及ぼさないはずです。

これではとても
主人公とは言えません。

しかし、

あなたは現実を途方もない
臨場感を持って感じ、

喜び、悲しみ、まるで
主人公のようにありありと
体験しているように見えます。

では「あなた」の現実における
立場とは一体何なのでしょうか。


▲ http://108.houhu.net

あなたは劇場で
映画を鑑賞しています。

主人公の身に降りかかるドラマを、
ハラハラしながら見守っています。

そして、

物語もいよいよクライマックス。
張り巡らされた伏線がつながっていき、
主人公は徐々に追い詰められていきます。

そして思いも寄らなかった人物が、
黒幕として主人公の前に姿を現す…

「うっ…オシッコがしたい!」

あなたは少しばかり
ジュースを飲み過ぎました。

ここまで何とか我慢してきましたが、
もう限界のようです。

「ちょっとスミマセン」

あなたはイソイソと席を立ち、
トイレに駆け込みます。

そして…

用を済ませ手を洗っていると、
目の前の鏡に自分の顔が映っています。

ここであなたは
ふと気づきます。

おや?

「私はこの映画の中の
主人公ではなかったのか…」

「いや、ただの観客だったのだ!」

さっきまで眺めていた
劇場の大スクリーンと、

トイレの中の
小さな鏡とが重なっていきます。

この鏡の中に映っている人物は、
一体誰だろう?

あの大きなスクリーンに
映っていた人物は、
一体誰なのだろう?

そしてもっと巨大な、
現実というスクリーンに
映っているのは、
いったい誰なんだ?

もう映画の続きなど、
どうでも良くなりました。

もっと重大なことに
気がつき始めたからです。

********

あなたは確かに
この現実の主人公かもしれません。

しかし、実際に体験しているのは
あなたではありません。

体験しているのは、
あなたの向こう側にいる「観客」です。

そしてその観客こそが、
本当のあなたなのです。

我々は映画を観るとき、
作品が自分の趣味・嗜好と合致していて、

あらゆる面で良くできていたとき、
その作品世界に心から魅了されます。

我を忘れ、
夢中になってのめり込むのです。

そんな時、
あなたはもはや主人公です。

観客であるということを忘れて、
主人公と一体化しています。

主人公に起きていることは
あなたに起きていることです。

実際に主人公として、
その映画の出来事を体験しているのです。

これと同じことが、
現実でも起きています。

あなたがオギャーと産声を上げて、
この世界に現れたときから
この映画がスタートしました。

最初はなんだかよく分かりません。
あなたはこの世界を把握しようと
一生懸命です。

そのうち、
ストーリーが段々と理解できてきました。

自分がどのような役どころで、
周りにいる配役がそれぞれ
どんなキャラクターなのか。

舞台設定はどうなのか。

あなたは自分の役回りを
どんどん進んで勤めるようになります。

それらしく振る舞うことが
ますます板についてきます。

あなたはすっかり
この現実世界の主人公に
なりきってしまいました。

そして、
本当は観客であることを
忘れてしまったのです。

私は誰だ?

映画はモンタージュという技法を用いて、
様々なショットをつなぎ合わせ、
一つのストーリーを構築します。

しかし実際には
無数の映像を細かくつないでいるだけで、

各シーンだけ単独で取り出してみても、
そこには何のストーリーも存在しません。

それを時間軸に沿って
つないで観ていく中で、

我々が連想してストーリーを
作り出しているに過ぎないのです。

つまり、
上映されている映像自体には
何の意味もなく、

各シーンを頭の中でつないでいき、
出来上がったストーリーから感じたものを

「これこれこういう映画だ」と
思っているに過ぎないというわけです。

映画という形態は、
あなたの内部でだけ存在しうるものなのです。

連想して感じた
様々な内部的体験が映画の本質なのです。

現実も同じです。

我々の目に映るあらゆるものは、
それ自体まだ何の属性も持っていません。

あなたはそれを様々な形で関連させ、
恣意的に解釈します。

この時点でも属性はありません。

あなたは次に
「それは楽しい」
「それは嫌だ」などと感じます。

あなたにとってのある現実に対して、
何らかの感情を感じた。

この時、
現実は初めて属性を帯びてきます。

これが体験というものです。

あなたが目の前のものに対して
思考を働かせ、解釈を試みます。

その結果、それはあなたにとって
ある種の属性を帯び、

それに対して
あなたは何らかの感情を覚えます。
これが「体験する」というプロセスです。

何かを見たから体験したのではありません。
その時何かを感じたことが体験なのです。

つまり体験とは、
完全にあなたの内部的なものなのです。

ということは、

どこかに行き、何かを行い、
何かを書き、何かを聞き、

何かを喋っているあなたは
主人公かもしれませんが、
それはあなたではありません。

その時何かを感じているあなた、
つまり実際に経験しているあなたこそが
本当のあなたなのです。

映画の入場チケットは無数にある

感じている者こそ
自分の本当の「主体」だと気づくと、

あなたは現実に急きたてられる
主人公の役割から解放されます。

現実は拷問ではなくなります。

あなたは投影されている
映像の一部ではなく、

それを鑑賞している
観客の立場に立つことが出来ます。

そして、元々そうだったのです。

逃れられない唯一の
ストーリーの呪縛から解き放たれます。

現実は、あなたを不自由に
閉じ込めておく檻などでは
なかったことに気づきます。

今までのあなたは、
その映画にのめり込み、

主人公と一体化していたため、
その視点を持つことが出来ずにいました。

しかし、
ちょっと用を足しにいった瞬間に、

そう、深呼吸をして
ふと、我に返った瞬間に、

本当の自分に
気づいてしまったというわけです。

私はどうして、
見たくもない映画に必死に
のめり込んでいたんだろう?

もうこの作品の続きを
見る必要はなさそうです。

あなたは映画館を後にします。

そして、
本当に見たい映画はどんなものか、
想いをめぐらせます。

頭の中に、
面白そうな映画のストーリーが
浮かんできました。

あなたは楽しくなって、
思わずウフフと笑いがこみ上げてきます。

目を上げると、正にそんな面白そうな
映画の看板がそこにありました。

「これだ。これにしよう!」

あなたはウキウキしながら
その劇場に入っていきました。

なんとなくですが、
面白そうな映画であることは
直観で分かりました。

それに気に入らなければ、
また別の映画を選べば
良いだけのことです。

映画など、星の数ほどあるのですから。
次の映画に移る

この現実を、
逃れられない唯一の現実だと
信じ込んでいると、
観客の視点を持つことは不可能です。

その時あなたは、
主人公としてそのストーリーと
必要以上に密着してしまい、
強力にその現実を固定化してしまいます。

結果、似たような現象化が
延々と繰り返されることになり、
変更はますます困難になります。

はっと気が付いて、
観客であることを思い出したら、

何が起きるのか。

何も起きません。

ただ、本来の視点を
取り戻すことが出来るようになります。

今までは主人公として
現実に感情移入しすぎていたため、

極めて近視眼的な視点しか
持ち得ませんでした。

これはエゴの視点です。

もっとよく見ようと、
読んでいる本に極限まで目を近づけても、
ますます読みづらくなるだけです。

そこで何とかしようと取り組んでも、
暗闇で闇雲に動き回って
いるようなものです。

そんなことをしても
上手くいくはずがありません。

そこから一歩引いて、
主人公である自分を観察する
観客の視点を持ってみる。

それは本来のあなたの視点であり、
別の領域から正確な観察を
行っているということです。

つまり完全に安全な領域から、
全てを見通せているということです。

昔、ドリフターズの全員集合!で
つい言ってしまった
「志村、うしろうしろ!」みたいに

主人公に適切な指示を
与えることも可能です(笑)。

大局的な視野でもって、
全てを見通すことが
出来るようになるのです。

思い出してください。

別の領域は可能の領域です。
そこに不可能という概念は存在しません。

つまり、あなたがその地点から
現実を眺めているとき、

その現実は如何様にも
変更可能だということです。

あなたがその視点を持つだけで、
現実は自動的に望むように変化していきます。

なぜなら

「現実は如何様にも変更可能である」
という者としての立場で、
現実を捉えるようになるからです。

これは
主人公としてストーリーに
密着しているときには
起こり得ない出来事です。

気が付けば、
あなたは以前とは全く別の
映画の中にいます。

いつの間にか
映写室のフィルムが
掛け変わってしまったようです。

しかし本当は、
フィルムを掛け替えたのはあなた自身です。

それが出来る立場であることを
思い出した「あなた」なら、
それは何の造作もない、
極めて容易なことなのです。

最後にもう一つ、
とても気が楽になるメッセージを
お伝えしましょう。

あなたは苦労して
望む現実を創造する必要は全くありません。

何故って?

それらは既に現実として存在しているからです。

あらゆる現実は可能性としてではなく、
本当の物質的な現象として全てあるのです。

あなたはその中からお望みのものを、
観客の視点でもって
単に選ぶだけでよいのです。

簡単でしょう?(笑)



長い記事を読了、
お疲れさまでした。

如何でしたか?
とても興味深い記事だったでしょう。

自分の人生がつらく感じる時は特に
こんなモノの見方を知っているだけで

一歩引いた視点から
自分を見ることができます。

私は昨日、「今に意識を向ける」という
テーマで参考記事を集めて更新しました。

どんな「現象」という映画を見たいのか
その選択権はあなたにある。

もっと身近なテレビに例えるなら
ほぼ24時間放映されている
たくさんのテレビ番組の中から、

今どの番組を観たいかは
あなたが選択していることであり、

「自分はツイてない!」と
自分の現実に不平不満をこぼすのは
実はとても、おかしなことなのです。

「この番組、面白くないな」と感じたら
別の番組に画面を切り替えれば良いだけ。

同じように、

「この感情、気持ち良くないな」と感じたら
別の感情に意識を切り替えれば良いだけ。


それが昨日のブログで
お伝えしたかったことなのです。

「今に意識を向ける」
「どこにフォーカスするのか」

その選択を
自在にできるようになりましょう!

その手助けとなるのが
「鼻呼吸」による気分転換です。


番組選択のリモコンは
あなたの手の中にあることを
お伝えしたかったのです。

お正月にでも、お時間があれば、
昨日のブログ記事である
「今に意識を向ける」と合わせて
本日の記事をもう一度
読み返して下さると嬉しいです。


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非公開コメント

頭の体操。

おはようございます。
私の衰えゆく脳みそに取って、とても哲学的で
難しかったです。

でも書き留めながらよく読み、自分をスクリーンから出したり入れたりして考えながら読みました。

現実というのはエゴだし、その中で起きていることは、すべてエゴによる支配されたものということでしょうか。私の内部から投影されたエゴの姿ということでしょうか。

う――ん、もう一素読み直します。
私も今朝は古い映画を見るように過去の自分の思い出の映画を見ました。それは短編映画ですぐに消えましたが。

リモコンを持っている私と現実の中の私は・・・・。
やはりもう一度読み直さなければ。
またきますね。
プロフィール

ナガサキブタロー

Author:ナガサキブタロー
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