2016
11.26

原因→縁→原因


▲http://hasunoha.jp/pickups/55


「ご縁」とは「因果=原因と結果」の
外的要因である


「縁」は仏教用語です。

「因果」とは「因=原因」と「果=結果」と
思っていただいていいでしょう。

よく「因果」は、「種」と「花」にたとえられます。
この花の種をまいたからこの花が咲く。

しかし、現実にはそう単純ではありません。
種をまいても花が咲かないこともある。

花が咲くには、「種をまく」という因は不可欠ですが、

そのほかに、気温だとか、土だとか、水だとか
様々な条件がそろってこそ「花が咲く」
という結果になります。

この「気温・土・水」に当たるものが縁です。

ですから「因果」といっても、
「因」の他にたくさんの「縁」によって
「果」が成り立つのです。

「因縁」とありますが、元は「因縁生起」なのでしょう。
「縁起」も「因縁生起」の「縁」と「起」を結んだもの。

「因」と「縁」が整ってこそ「果」があるのです。


▲http://www.saikoji.net/houwa/houwa0801.html

「縁」は選択できる

「因果」つまり原因と結果の間にあるのが「縁」です。

原因は縁によって結果となるという、
因果の道理についてはこれまで幾度も述べてきましたが、

今回はこの「縁」について、
『「縁」は選べる』という持論を紹介したいと思います。

まず縁とはどのようなものでしょうか。
一言で言えば、万物の潤滑油のようなものです。

諸行無常といって万物は一瞬一瞬変化していますが
その「変化」の動向や実態はその「縁」によるのです。

変化は全て「縁」次第という、
いわば「変化」の潤滑油に当たるのが
"縁"といったらよいでしょう。

そのことを念頭において
まずその「変化」について考えてみます。

「変化」とは何か。

「変化」はどのようにして起こるのかを考えてみます。

変化とは万物の一つ一つに具わった
エネルギーの移動によるものです。

以前「もの」には全てそのものに具わった
エネルギーがあるということを述べましたが、

「ある」というより、その「もの」自体が
エネルギーと言った方がよいかもしれません。

つまり存在=エネルギーということです。

例えば、変化として分かり易いのが「老化」です。

人は時間と共に老化しますが、
老化という「変化」を考えた時に、
それは新陳代謝によるエネルギーの損失による変化です。

そしてやがて全てのエネルギーが尽きた時に
その「存在」も無くなります。

存在=エネルギーですから。
それがすなわち「死」です。

なるほど、人や生物の場合は
それでなんとなくわかりますが、
では無生物の場合の変化はどうでしょう。

一つの岩を例に考えてみましょう。
岩は無生物ですから当然新陳代謝をしてはいません。

しかし、存在=エネルギーという理論(持論)からすると
当然岩にもエネルギーがあることになりますが。

そうです。

その岩もれっきとしたエネルギーの塊(かたまり)なのです。
岩がエネルギーの塊だって?一体なんのことでしょうか。

「風化」ということを我々は知っています。

風化はれっきとした「変化」ですが、
この場合の変化は岩が外から受ける
エネルギーによるものだと考えるのが常識です。

でも持論から言いますと、
それは岩それ自体の退化エネルギーによるものなのです。

つまり、「生育」も「老化」も「退化」も「風化」も
みんなそれ自体のエネルギーによる「変化」なのです。

すなわちエネルギーの移動により存在が形を変えるのです。

これが「変化」です。

生物、無生物を問わず、
存在する「もの」にはすべてエネルギーがあり、

そのエネルギーの移動が変化となって、
その流れは永遠に止むことはないのです。

これがすなわち諸行無常の姿です。

何年、何十年経っても変化していないように見える岩でも
百年経てば目に見える変化が現れてきます。

百年経って変化しているということは、
一年一年で変化しているということです。

一年一年で変化しているということは、
一日一日で変化しているということです。

一日一日で変化しているということは、
一分一分で変化しているということです。

一分一分で変化しているということは、
一秒一秒で変化しているということです。

つまり、刹那ごとに変化しているのです。

生物、無生物を問わず、
万物はそれ自体瞬間瞬間に変化し続けているのです。

では次に
その「変化」のメカニズムについて考えてみましょう。

「変化」にはルールがあるのです。
すべての「変化」はそのルールに則っているのです。

そのルールこそ「因果の法則」であり、
その素因が"縁"という潤滑油なのです。

では「縁」とはどんなものでしょう。

一つの「もの」が時間の流れに
流されている状態を水の流れに例えてみます。

水は万有引力の法則に従って
ただただ低い方へ低い方へと流れていきます。

その流れは一定ではありません。

速度を変え、速くなったり遅くなったり、
急カーブしたりしながら流れて行きます。

それは流れの中にさまざまな障害があるからです。

流れにとって自分の都合で
流れの速さや方向を変えることはできません。

都合の良い石もあれば悪い石もあるでしょう。

イヤな石にぶつかったり岩に乗り上げたり、
土を削ったり、澄んだり濁ったりしながら流れていくのです。

その流れの中にある障害のすべては環境である以上必然のものです。
必然ですからそれは"縁"であり受け止めるしかないのです。

つまり"縁"とは"必然"であり
避けられないものだということがわかります。

これと同じで、

万物の一つ一つにはそれぞれの流れがあって
その環境のすべてが"縁"であるのです。

人の人生もこれとまったく同じだと考えられます。
人それぞれにはそれぞれの環境という必然があるのです。

その環境のすべてが「縁」であると考えたときに、
その縁といかに向き合っていくかが人生にとって大切なのです。

今私は、縁は必然であり、その縁と
如何に向き合っていくかが問題だということを申しましたが、

実は人の場合「縁は選択できる」のです。
これこそ人に与えられた「特権」なのです。

出会う「縁」は必然であり、
仕方のないものとしましょう。

しかし、「縁」が選択できるというのなら
それをしっかり認識してそれを人生に活かすべきなのです。

人の出会いの縁からその「選択」について考えてみましょう。

友人を選ぶということは一つの選択ですが、
良い友人を持つのと悪い友人を持つのとでは人
生にとってその影響は実に大きいものがあります。

さらにそれ以上に人生にとって
重大な縁と言えば結婚でしょう。

結婚は出会いの中でも最大級の「選択」であり、
その決断は人生を左右するものと言っても過言ではありません。

そこで、極最近ある若い女性から
直接聞いた話をご紹介します。

数年前のこと、縁あってある男性と
約一年間の交際を経て結婚することになったそうです。

お相手は家柄も良く社会的経済的にも
まったく申し分のない青年だったそうです。

結納も済み、式場を決めようとしていた
矢先のことだったそうです。

その彼からなぜか突然彼の家の
お墓参りに誘われたそうです。

ご先祖様へのご報告として
当然のことだと思いながら、
そのお墓に案内されたそうです。

ところがそこには彼女にとって
大変な"結果"が待っていたのです。

そのお墓に行って唖然としたというのです。

そこにはなんと卒塔婆でもない板切れが
数本立っているだけでそれ以外何も無かったというのです。

「ええ・・・! これがお墓?」
「墓石も何も無いのに何を拝むの?」

「この家の人達は一体先祖やお墓のことを
どう考えているのだろう?」

「こんなお墓に連れてきた
彼のその神経が理解できない・・・・・」

しばし呆然。

この瞬間から、彼との結婚への想いは
急激に冷めてしまったそうです。

結局破談となり当然その理由を聞かれたそうですが、
お相手方にその本当の理由はすぐには言えなかったそうです。

「突然決まったあのお墓参り・・・
あれはきっと私のご先祖様、特にお爺ちゃんの

示唆によるものではなかったかと今にして思われます。」と
彼女はいみじくも語っていました。

出会いという「縁」から結婚という「選択」があるわけですが、
彼女の場合実にドラスティックな"選択"があったわけです。

それはまさにご先祖さまからの
"ご神託"であったとも捉えることもできますが、

私には何よりも彼女にご先祖様に対しての
報恩感謝と畏敬の「感性」があったからこその
結果だったと思えるのです。

私は彼女のそんな感性に感動を受けましたが、
その感性こそご先祖様から受け継がれた
「因縁」によるものなのです。

優れた感性が正しい縁の選択をするのです。
今の時代に最も求められているのは
そんな「感性」ではないでしょうか。

「縁は選択できる」ということの一例を述べましたが、
これは特段に考えることではありません。

誰でも毎日の当り前の生活の中に有る
ちょっとした「選択」をちょっとだけ
真剣に考えてくれればよいのです。

例えば、朝早く起きるか、遅く起きるかということで
検証してみましょう。

例えば早く起きることを選択すれば、余裕ができます。

余裕ができればしっかりした食事がとれます。

家族の会話ができます。
学校や会社に遅れる心配もありません。
ストレスもたまりません。

他方、ぎりぎりまで寝ていることを選択すれば、
あわてて起きなければなりません。

結果、満足に食事もとれません。
家族の会話もできません。

あわてて事故にぶつかる可能性も高くなります。
すべてに余裕がなくなればストレスも重なります。

双方の結果は歴然です。

朝起きなければならないという事態は
必然の「縁」ですが、起き方の選択の違いで
その結果は大きく違ってきます。

これが習慣となれば
やがて大きな結果となって現れてくるでしょう。

このように、われわれの毎日は選択の連続なのです。

良い選択は幸福に向かいます。
悪い選択は不幸に向かいます。

犯罪を犯す人は間違いなく
「選択」を誤ってしまうのです。

これこそ因果の法則です。

毎日の生活は縁の選択の連続だとしたら、
人生は縁の選択で決まってしまいます。

だとしたら選択の判断を
間違えない方法があったら良いですね。

実はあるのです。

次はその方法について考えてみましょう。

「縁」は心で決まる

「縁」は必然であり、その縁と如何に
向き合っていくかが問題だということを述べました。

さらに縁を選択できるということは
人に与えられた「特権」だとも述べました。

果たしてほんとうにそうでしょうか。
その点についてもう少し考えてみたいと思います。

まず「必然の縁」とは
"与えられた縁"であるということです。

川の流れの中でぶつかる岩は必然の出会いです。
生まれてきた親の下も必然の縁です。

「必然」の縁だから子供にとって親は選べません。

一方の「選択できる縁」とは、
必然の後の「対応の縁」を意味します。

対応の縁とはこれから"どう向き合うかという縁"のことです。

例えば、ある会社員が転勤命令を受けました。
その場合転勤命令は受け止めなければならない必然の縁です。

しかし、その「命令」に対して人は
どうするか選択できます。これが「対応の縁」です。

つまり、人が受け止める縁は必然ですが、
対応で縁を選択できるのです。

人生は縁の選択の連続だとすると、
良い人生も、悪い人生もそれぞれの選択の
積み重ねの結果だということがわかります。

ですから

"縁に流されて"しまうのではなく、
しっかり向き合うべきなのです。

そして、普通「縁」というと
何か特別の出会いや出来事を思い浮かべる人も
多いかと思いますが、実は毎日の生活のすべてが
縁だということを認識して欲しいのです。

今食べていることも、話していることも、
歩いていることも、車に乗っていることも、

働いていることも、

即ち朝起きてから寝るまでの
一挙手一投足の行動の全てが
「縁」との「対応」と「結果」なのです。

結果が次の必然であり、その必然との対応が
次の結果をもたらすという、人生は縁の展開なのです。

そこで考えなければならないことは、
必然の縁には当然好ましい縁もあれば
好ましくない縁もあります。

しかし、好ましい縁であっても
扱いによっては悪い結果となりますし、
悪い縁であっても扱いによっては良い結果をもたらすことを
自覚すべきです。

また、良い縁だけが与えられる人生なんて絶対にありませんし、
また悪い縁だけが与えられるということも絶対にありません。

どんな人の人生もさまざまな縁のぶつかり合いなのです。

ですから、人はどんな縁に対しても
"選択"で勝負をしなければなりません。

しかしその勝負にいつも勝てるとは限りません。

なぜでしょう。

それは人の人たるゆえんです。
そのゆえんとは「こころ」です。

人の行動のすべては、意識的にしろ無意識的にしろ、
「心」によるものだからです。

ですから、どんな縁でもそれを好転させるかどうかは
その人の心に掛かっているのです。

ということは、人生を決めるのは縁ではなく、
その縁をコントロールする「心」だということになりますね。

つまり「こころ」こそ縁の「よるべ」なのです。

ですから、仏教は
「心」を第一番の問題と捉えているのです。

仏教は「仏陀の教え」ですが、
一言で言えば心のあり方の教えです。

お釈迦さまは真理を悟られて、
人にとって心こそ最大の問題だと認識されました。

つまり、人は心を豊かにすれば幸せになれるし、
心を貧しくすれば不幸に陥るという
極めて単純明快な教えなのです。

しかし、お釈迦さまの教理はお悟りから生まれた
深遠で妙たるものなので人々には大変難しかったのです。

悟りの世界のことは悟りを体験せずには
理解はできなかったからです。

どんな体験でもそうですが、
その内容を言葉だけで100パーセント人に
理解させることは無理です。

それと同じことで、
悟りの智慧は悟ってこそ初めて理解できるのです。

だからこそ、お釈迦さま以来あまたの修行者が
命がけで修行をしてきたのです。

悟りの智慧とはそれほど価値のある凄いものなのです。

その仏教も初めは「学問」だったと考えられるのです。
科学、物理学、医学などと同じような「哲学」でした。

普通「~学」という学問であれば
案外簡単に証明ができますから
誰にでも容易に理解できます。

科学も物理学も医学もみんな
"証明"や"立証"ができる「学問」なのです。

では仏教はなぜ宗教に
なってしまったのでしょうか。

その理由を持論で述べてみたいと思います。

特にインド文化においては
哲学を教える先生などは
仙人のような扱いを受けたそうです。

先生の教えを頂くときにはまず
お線香を立てて礼をしてからという
習慣があったそうです。

仏教が"宗教"になってしまった要因には
そうした環境も考えられますが、

私は一番の理由は一言で言えば
仏教の持つ「凄さ」だったと思うのです。

仏教は小乗から大乗に至りました。
その大乗の中でさらに顕教から密教に進化しました。

特に密教は理論で理解できない世界です。
理論で理解出来ないことを「不思議」といいます。

不思議とは「思議すること不可能」ということであり、
人の考えや思いの及びのつかない世界のことを言います。

先に、

仏教は悟りの智慧から出た教えであり、
その体験無くして真に理解できない
ということを述べましたが、

それは即ち証明や立証のできない世界だ
ということになります。

証明、立証ができないものは
「学問」の範疇ではなくなります。

証明や検証ができないものは「不思議」なものであり、
その「不思議」な感覚、感情を与えるものを
カリスマと言います。

そのカリスマに人は惹かれ興味や憧れを持つのです。
その畏敬の心が「宗教心」になるのです。

お釈迦さまにはその凄いカリスマがあったのです。
私の言う仏教の「凄さ」とはそういうことです。

不思議な人、不思議な世界に人は惹きつけらます。
そこは理屈無しに信じられる世界になるのです。

理屈を超えて信じる世界、それが「宗教」です。

ただし、いつも言うように
宗教にはいろいろあるので
気をつけなければなりません。

宗教といわれるものはみな一様に
「幸せになる」ための教えを謳っていますが、

盲信は絶対ダメです。

実体を見極めないと
「邪教」や「外道」に陥る結果にもなりかねません。

おかしな宗教によって不幸になったり
人生を狂わせられたりしたケースはいくらでも有りますし、

これから将来も人類が続く限りそういったことが
無くなることは絶対にありません。

それは人間とは宗教的生き物だからです。
気をつけましょう。

以上、仏教と宗教との関係について述べてみましたが、
要するに、仏教とはただただ「心の教え」だということです。

どうやって悩みを無くすか。どうやって苦しみを無くすか。
どうやって完成された人格をつくるか。

つまり、どうやって
「心」を豊かにするかについての教えが仏教なのです。

我々は、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、
体で感じたり、考えたり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、
楽しんだり、嫉妬したり、憎んだり、愛したりしますが、

これらはすべて「心」の働きによるものです。

心の働きと言いましたが、
これほど科学や医学が進歩した現代においても
心の実体が解明されたわけではないのです。

いくらレントゲンをかけてもMRIで解析しても
体のどこにも「心」の実体が確認できません。

その形も場所もわかっていないのが現実なのです。

辞書には「人間の精神作用のもとになるもの。
またその作用。知識、感情、意志の総体。」
などと定義されていますがきわめて抽象的です。

では、仏教はその「心」をどう捉えているのでしょうか。

御開山道元禅師は
「よろずの存在がそのまま心である。
三界はただ心である。」

「正法眼蔵(心不可得)」と示されています。

この意味は、「存在のそれ自体が心である」ということです。

さらに、「心とは、一心一切法、一切法一心である。」
「正法眼蔵(即心是仏)」と示されています。

この意味は、「心が即ち一切の存在であり、
一切の存在が即ち心である」という意味です。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://dejimablog.blog39.fc2.com/tb.php/517-4ab1f46b
トラックバック
コメント
こういうお話をもっとゆっくりと聞きたい、と思います。何か日常に押されて、ゆっくり立ち止まって話を聞く時間を制限しているような私です。昨日も斎藤一人さんのお話も聞きましたが、時間が来てコメントを入れずに失礼しました。

心こそ縁の寄るべ・・・心を豊かに・・・もっと考え、もっと実行しなければ
私の心にある濁りみたいなものが消え去らないと思います。
仏教の持つすごさが、畏敬の念へとつながり、、理屈を超えて信じる世界なのですね。

まだまだ理解できないところが山ほどですが、一個でも心に残して生活したいものです。

すみませんわからないようなコメントになりました。今度私の一番の友人が得度します。これからの人生において彼女の存在も大変頼りになります。
ローズコーンdot 2016.11.27 07:00 | 編集
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top