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2016
12.01

人間関係は、魂の修行


▲http://www.hachimangu.com

皆さんは、最近何か失敗したこと、悲しいこと、
苦しかったこと、つらかったことはありましたか。

現在大変な苦労を感じている人もいると思います。

しかし私達は今、こうして生きています。
神様は、自分にしょいきれない荷物は与えません。

その時は一瞬闇の世界に入ったような、
谷底に落ちてしまったような気持ちになりますが、

私達には自分の力で
はい上がる知恵と行動力が与わっています。

八方ふさがりと思っていても、
どこかに抜け道を与えてくださっています。

何故なら、苦しみ、悲しみ、さびしさは、
自分の魂をきたえてくれる修行として
神様が与えてくださっているものだからです。

「身から出たさび」ということわざがあります。

後で自分が困るようなことを
自分自身でしてしまうことです。

悪い種をまいたら
自分で刈り取らなければならないように、
世の中の仕組はなっています。

だから、「悪の栄えた例はない」
ということわざがあるのです。

しかし、中には
自分は何も悪いことをしていないのに、

どうしてこんなにつらいことが起きるのだろうか、
と思う人もいるでしょう。

そのつらいことが
神様から与えられる試練、修行なのです。

自分に与えられた試練だから、
自分が乗り切れない苦労はないのです。

投げやりにならない限り、
必ず乗り切ることができるのです。

そして一つの苦難の山を乗り切ることができた時、
自分の魂は一段階成長していくのです。

多くの苦難を乗り越えた人は、
多少の苦労や問題事が起きても、動揺しません。

黙々と乗り越えていきます。

強い精神力がきたえられているので、
つらいなーと思うことがあっても、

それを一つ乗り越えてしまうと、
同じようなつらいことが再び起った時、
今度はさほどつらく感じなくなってくるのです。

それが魂の成長です。

私達はそうしたことは頭の中で分かっています。
しかし、現実に又新たな試練に出会うと、
迷い、苦しんでしまいます。

まだまだ魂の修行が足りないのです。

忘れてならないのは、
私達がこの世に生きているのは、
魂の修行のために生かされているということです。

この世は修行の場所なんだから、
人生毎日が勉強と修行の繰り返し、

そしてこの世での修行が終わると、
魂の容である、肉体と別れて霊界に戻っていく。

そう思えばいいのです。

そして魂はいつしか、
再び更なる成長を求めてこの世に戻って来る。

だから、この世には十人十色で
色々な魂を持った人がいるのです。

その違いは、魂の成長段階の違いです。

十の修行を得てこの世に戻って来た魂は、
十の成長を得て生まれています。

五の修行しか前世で得ていない魂は、
五の成長の魂としてこの世に生まれてきます。

魂の成長によって、
この世での苦しみの感じ方も違ってくるのです。

現在とても苦しい苦しいと思って生活している人は、
魂の修行がまだまだ足りない人なのです。

成長した魂として再びこの世に生まれてくるために、
今つらい修行を乗り越えましょう。

少しでも魂の成長がなければ、
何のためにこの世に生まれてきたかの意味が
なくなってしまいます。

最初にお話ししましたように、

自分にしょいきれない苦労の荷物は、
神様は与えていないのです。

自分だからこそ乗り切れる苦労を
神様は与えてくださっていると思って、

魂の成長のために、
今、この世で頑張りましょう。

苦しみ、悲しみは必ず乗り切れます。

動物も植物も魚も鳥も森羅万象
この世のすべての物は神から与えられた物です。

私達が再びこの世に生まれ変わってくる時、
与えられる魂の容は、人間とは限りません。

動物であったり、ヘビであったりするかも知れません。
犬畜生におとる生活をしていると、

再び生まれ変わった時は
犬畜生におとるものであるかも知れません。

将来のこと、ましてや
来世のことなど私達には分りません。

しかし、はっきりしていることは、
今、私達は人間として生きていることです。

人間として、この世に生を受けたことに感謝し、
魂の成長のために、苦労に感謝して、
苦難に立ち向かいましょう。

きっと新しい光があなたの心に差し込んでくるでしょう。



皆さんには自分が生きていく中に、
人生の支えとなる言葉や
戒めとなる言葉がそれぞれあるでしょう。

「座右の銘」とか「好きな言葉」などと
言われています。

お坊さんで、南無の会・会長の松原泰道さんは、
人生は「旅」であるから、

旅に大事な杖になる言葉ということで、
「杖言葉」と言っています。

私の杖言葉についてお話しします。

私が大学を卒業し札幌八幡宮の神主として
務めて間もないころ、神道大教の長老で女性の神主さん、

今は亡き大橋咲先生に初めてお会いしたとき、
「人間はね、初対面が大事。最初に相手に飲み込まれると、
一生頭が上がらないから」と、お話しくださいました。

初対面で苦手意識を持ってしまったり、
相手の勢いに飲み込まれてしまったら、

何故かいつまでたってもその人と対等になれないような、
引け目を感じてしまうことがあります。

だからといって、初対面のとき、殊更に自分を誇示したり、
威張ったり、相手を見下ろすような態度を取っては、
逆に自分の人格が疑われてしまいます。

初対面の人には、心に緊張をもって接することです。

そうしなければ相手にだまされたり、
自分の魂を奪われてしまうことにもなりかねません。

例えば、悪い新興宗教に引きずり込まれたり、
異性に心を奪われて人生を狂わせてしまうこともあるでしょう。

最初の出会いによる心のスキが
大きな間違いを生み出すことにもなりかねないのです。

初対面は勝負の立ち会いと同じです。
立ち会いで引けを取れば負けてしまいます。

心を惑わされないように、魂を奪われないように、
自分の心をしっかりと持ちつづける緊張が必要です。

そして、緊張を人に見せず、気負わず、
自然な対応ができれば素晴らしい
対人関係を展開していけるのではないでしょうか。

私は、「初対面が大事」を杖言葉として、
初対面の時ばかりではなく、まだ気心の知れていない人と
付き合う時にも気をつけるようにしています。

人間、人がいいばかりでは駄目なのです。
しっかりとした一念を持つことも大切なのです。

そんな意味で、私は初対面のときに
相手に飲み込まれないように心掛けています。

次の話は、私が中学生のときです。

神様にお供えされた「おつまみ」の大袋を
一人で全部食べてしまい、

次の日おなかを痛くして苦しんでいると、
朝のお参りをしていた母に神様がお下がりになって、
私にお告げをくださいました。

私の母は、神様や亡くなられた人と
交信ができる不思議な霊感をもっていました。

四十年も前のことで定かではありませんが、
内容は「何事も腹八分目にせよ」とのお言葉であったかと思います。

神様が私にくださったお言葉はこの時だけです。

たった一度の短いお言葉ですが、
私の人生における欠点を見透かしたお言葉であると思います。

腹八分目が身についていれば、今のように、
体重も百キロ近くまでにはならなかったでしょう。

またお酒を飲み過ぎて失敗をすることもなかったでしょう。
腹八分目を心掛けて体を大切にしていきたいと思っています。

また、「何事も腹八分目」のお言葉は、
単に食欲だけのことではなく、
心や精神的なことにも当てはまると思います。

何事も腹八分目で自分の心を押さえることができるならば、
短気な心も爆発させずにすむでしょう。

心配性の心も、余裕がもてるようになるでしょう。

人を叱っても叱り過ぎて、
逆に反感を持たれてしまうこともなくなるでしょう。

くよくよ悩んでも、心の切り返しによって
開き直りの心になれるでしょう。

愚痴る心にも、物事の真理を見極め、
反省の心を持つことができるでしょう。

恨む心もあきらめの心へと変わっていくでしょう。

神様のお言葉には奥深い諭しがあります。
「何事も腹八分目」は私の生涯の課題となる杖言葉です。

先人の知恵や体験が我々を良き方向へと導いてくれます。

皆さんも、自分の人生の支えとなる「杖言葉」を持ってください。
そして、その時々に応じて杖言葉をじっくりと考えましょう。



私はいつもお話の中で、神様にお願い事をしたら
必ず御礼のお参りをしてください。

そうしないと神様に借りを作ってしまいますよ。
と言っています。

しかし、御礼のお参りをしたからといって、
神様に恩返しができるのでしょうか。

私達は神様に、いくら御礼の真心をささげ感謝をしても、
神様のご恩に完全に報いることはできないのです。

それは、私達が今現在生きていること自体が、
神様のお蔭だからです。

太陽からいただく熱も光も、そして毎日口にする
すべての食べ物も、息をはずます呼吸も、
すべて大自然の摂理の中で私達は生かされています。

私達が努力し、工夫をこらし、色々なことを発明し、
発見しても、宇宙の存在に比べたら
ほんのささやかなことなのです。

宇宙の摂理という大きな力、
神様のお力によって私達は今生かされています。

今、自分がこうして生きている。
家族と共に生きている。

これは当たり前のことではなく、
大変な恵みであり、ありがたいことなのです。

思い返してください。

もしかしてあの時に大変な事故となって、
自分は死んでいたかも知れない、
と思い当たることもあるでしょう。

もしあの時に、あの人との出会いがなければ、
今の自分はなかった。

奥様とあるいは御主人と、
あの時の出会いがなければ、
今の家庭を築くこともできなかったはずです。

私達は過ぎ去った多くのことを、
当たり前のこととして、感謝の心を忘れてしまっています。

日本人の平均寿命は八十才位だから、
自分はまだまだ大丈夫と安易に考えてはいませんか。

自分にはまだまだ寿命が残されていると
思い込んでいませんか。

朝刊に掲載されているおくやみ欄を見ますと、
八十才前後の方が多くを占めています。

しかし、必ず若くして亡くなられた方が
何人も載っています。

自分はまだまだ若いと思っていても、
決して他人事ではありません。

いつ災難や重い病気が自分のこととなるか
分からないのです。先のことは誰にもわかりません。

誰にもわからないことを
私達は安易に自分は大丈夫と思い込んでいます。

そう思えるからこそ、恐怖心を持たず、
明日が必ずやって来ると信じて、
今を楽しく過ごすことができるのかも知れません。

先が分からないからこそ、息を引き取る間際まで
一所懸命生きていけるのかも知れません。

しかし、もし突然死の宣告を受けたとしたら、
あなたは、今の人生に満足できますか。

まだまだやりたいことがある。
私にはまだ違った人生があるはずだ。と、
取り乱したりしませんか。

人生を悟り「そうか、私の人生はこれで終わりか。
思い残すことは何もない。

自分なりに一所懸命やってきた人生だった」と、
満足した気持ちになれますか。

難しいとは思いますが、
そのために今から準備することは可能だと思います。

誰でもいつかは死んでしまいます。
死亡率は百パーセントです。例外はありません。

そう考えると、いつか死に直面する日のために
準備を心掛けることはできるのです。

そうした心掛けがあればこそ、
いざという時に悟の心境になれるのではないかと思います。

今のあなたは、あまりにも忙し過ぎる。
目の前の問題に取りくむだけで精一杯。
感謝の心をもつ余裕なんてない。
これが現状ではありませんか。

自分を取り巻く環境に振り回されてしまっては、
自分の心をしっかりとつかんでいくことができません。

何かに踊らされている人生となり、
自分の人生の満足感は得られません。

それではどのような準備を心掛けていけばいいのでしょうか。

それは、自分の現状や環境を
神様から与えられた試練として、
すべてを前向きに受け止めていくことです。

人生の課題を与えられていると思うことです。
自分なら乗り切れる課題だから、
神様が与えてくださっていると思うことです。

そうすると、自分の人生を恨むことも、
妬むこともなく、絶望感を感じることもなくなります。

自分の現状や課題を
この世で背負わなければならない荷物として
受け止めるのです。前向きの考えに変わったとき、
体にみなぎるエネルギーがわき出てきます。

知恵も勇気も出てきます。
人間の体はそのようにできているのです。

そして、苦難を乗り越えたとき、
感謝の心と喜びの心がわき出てくるのです。
 
前向きの人生には、迷いも、恐怖心も、
おごりも、倦怠もありません。

神様のみ心に生かされているという「ありがたさ」だけです。

不平不満を思わず、すべてを神様のみ心と受け止め、
試練として自分の人生を前向きにとらえていくことが、

素晴らしい人生の終結を迎えるための
準備となっていくことと思います。


▲http://shirokum.seesaa.net/



 質問 

私の母は、1年前から体調が悪くなり、
ほとんど1日、寝たきりの状態です。

子育てと病人の介護で、
私は肉体的にも精神的にも疲れてしまいました。



 アドバイス 

大きな目で見たなら、
一生のうちに家族に病人を持たない人は
ほとんどいないかもしれません。

病気、事故、不慮の災難、
そして、それにもとずく死。

人生の折々に見受けられるものです。

それは、人々を
深い悲しみの淵に立たせることになります。

現実に病人をかかえ、看病に明け暮れている家族は、
とても暗くなっています。

ただ、その暗い面だけを
あまり強くとらえすぎてはいけないと思います。

人間は、本体である魂が
肉体に宿って修行をしている存在です。

たとえ、その体が病に冒されて苦しんだとしても、
魂そのものは、地上を去って、あの世に還ったときには、
元のとおりの完全な姿になります。

病に苦しんでいる姿は、あくまでも、
この地上で修行をしていく途中に現れてくるものであって、
永続的なものではありません。

たとえ、その目には、どんなに
地獄の苦しみのように見えたとしても、

肉体というものから逃れ去り、
魂そのものとなったときに、
人は、自由自在の境地に入ることができるのです。

そうである以上、たとえ病気で苦しみ、
やがて、その病に倒れて帰らぬ人となったとしても、

死んでからのちのことのほうが、
はるかに大事であるわけです。

この世は、あくまでも、
「あの世に還るための準備期間」 であり、
「あの世に還るための予習」 なのです。

どのような問題が降りかかってきたとしても、
その事件を、その事柄を自分の魂にとって、
プラスに役立てる方向に考えていくことが大事です。

それが、看病する側にも、看病される病人の側にも、
望まれることなのです


◇苦しみや、悲しみは魂を光らせるための砥石

看病して疲れている人に対して、
あえて酷なことを言うつもりは、決してありません。

しかし、その人にとっては、
「家族に病人が出た」という厳しい環境の中で、

いかに朗らかに、いかに明るく、
いかに希望に燃えて生きられるかが
本人の魂を光らせるための試練になっているのです。

あらゆる苦しみや、悲しみを、
魂を光らせるための砥石だと思ったときには、
どんな苦しみや悲しみにも耐えていけます。

むしろ、そうした悲しみのときこそ、
宗教的な飛躍というものが訪れることがあります。

そういうときにこそ、人間は、救いを求め、
魂の領域において、一段と飛躍することができるのですね。

病人が出たからといって、
それを自分の不幸の言い訳にすることなく、

それによって自分が
魂の修行の機会を与えられたことに感謝し、

その中で自分の心を
磨いていこうと思うことが大切です。

病気は、ほんとうの愛を知るチャンスでもあります

家庭に病人が出たときには、
「与える愛、尽くす愛、奉仕とは何か」
ということを考えさせられます。

これは、まさに、他人に対する献身の心を
学ぶ機会ではないかと思います。

愛というものは、その基礎に、
「忍耐と寛容」 をともなっているものなのです。

調子のよいときだけ、相手を愛すること、
たとえば、夫の調子がよいときだけ夫を愛したり、
妻が美しいときにだけ妻を愛したりするのは簡単です。

しかし、夫が仕事で失敗したり、
妻の美貌が衰えてきたりしたときに、

なおも愛するということは、
なかなか難しいことでしょう。

それでも愛していこうとする、
その忍耐と寛容の心が、やはり愛というものを
裏打ちするものだと思うのです。

病人に対しても同じです。

家族として仲良くやってきた者のなかに
不幸が起きたなら、それを辛抱強く
見守ることが大事なのです。

また、病人の側も、自分の運命を恨むことなく、
自分がこのように人の愛を受けて
生きていかねばならない立場になったことを深く考え、

少しでも周りの人たちが楽になるように、
周りの人たちを喜ばせることができるようにと願い、
「心の安らぎを、いち早く得よう」と思っていただきたいのです。

そして、恨み心から離れ、安らかな心を持って、
その病の療養に全力を尽くすことです。

もし、運命が開けず、他界することになったとしても、
そういう殊勝な心がけで闘病を続けたならば、

肉体を離れたときに、必ずや、光輝く天国の世界へ
還れることでしょう。

すべての運命を恨むことなく、
すべてを自分の魂の糧(かて)として選び取っていくなかに、
真なる幸福というものは光ってくるのです。


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コメント
昨日も読んだのですけど、何もコメント入れませんでした。
すみません。あまりにたくさんの学ぶべきことがあって、それに対応できないでいます。だからひとつづつ、頭にとどめることを心がけようと…見るたびのそれをするとどんなに長く書かれていても、きっと心に残るはずだと思いますので。

今日は「黙々と」起きる物事に対処していく。・・・です。
私も今月は島に帰って、洪水の後始末で、隠居のほうの家を解体したり、そして狭い河地から水があふれるのを防ぐために、自宅側にブロックを少し積んでもらう予定で、何かと大物入りで、気分が暗くなりますが…これもみんな私の修行なんだと、黙々と実行していこうと思います。
ローズコーンdot 2016.12.02 06:57 | 編集
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