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2017
07.24

ありのままを受け取ることができれば、そこに救いがある

Category: 雑記つれづれ


最近、「学校では教えてくれない宗教の授業」という本を読みました。宗教評論家の「ひろさちや」さんという方がお書きになった本です。

とてもためになることが書いてあり、「なるほどなぁ」と抜き書きすることがたくさんありました。

その内容の一部でも、なんとかこのブログでご紹介したいと思っていましたら、「Googleブックス」で内容の一部が読めるようになっていました。

本日のブログでは、その中から私がメモした部分を抜粋してご紹介したいと思います。

タイトル画像にリンクを貼っていますので、どうぞ本ページの方も是非ご覧下さい。

面白いと思われた方は、図書館か古本屋さんで手にして読まれてみたらどうかと思います。

とても良いことが書いてありましたよ♪


▲Googleブックスの紹介ページ

この世は、そもそもデタラメだと心得る

これは何故かと言いますと、世の中はそもそも「デタラメ」だからです。

デタラメとは、「筋が通らない、勝手きまま、いい加減」という意味で使われますが、もともとの意味は「出たら目」です。

サイコロを振って、その出た目に任せることです。

例えば、交通事故が起きる確率は、車の台数によって統計的に分かってくることです。

しかし、誰が交通事故に遭うのかは分かりません。

それらは、まさに「デタラメ」なのです。

そして、神様・仏様のモノサシは、人間から見れば「デタラメ」なのです。

私たち人間の論理やモノサシから見れば「デタラメ」に見えるのです。

さらに言えば、私たちにとって「デタラメ」に映るものが、まさにそれゆえに、神様・仏様の心だということが出来ます。

たとえば、「良いこと」や「良い結果」とは、いったい何でしょうか?

あなたが宝くじに当たったとしましょう。

それは「良いこと」ですね。しかし、そのことによって、かえって不幸になることもある訳です。

もしも宝くじで1億円が当たったばかりに、夫が浮気をし始めたり、親戚縁者が次々とやってきて「金を貸してくれ」と頼まれるかも知れません。

人間関係もまずくなることでしょう。そうなったら、不幸なことじゃないですか?

だから、宝くじがあたることは、必ずしも「良いこと」ではありませんね。

大学に合格することが「良いこと」かどうかもわかりません。

希望通りの大学に受かっても、そこの同級生に意地の悪い奴がいて、苛められるかもしれない。

落ちて一年遅れたために、素晴らしい恋人が見つかるかもしれない。

結局のところ、私たちには、「良いこと」や「良い結果」は、本当にそうだとは限らないのです。

私たち人間には、なにが良いのか悪いのか、何事も分からないのですから、良いことも悪いことも「今いただいたものは、すべて神様・仏様から頂いた」ということにすれば良いと思います。

病気になったら、それは「神様・仏様が病気を下さった」ということです。

どうして病気になったのか、その原因はよくわからないけれど、病気になったのは事実です。

それは神様・仏様のはからいである。神様・仏様のモノサシは私たちには分からない。

だから、「有難いなぁ」と受け取らせて頂くのです。

リストラに遭っても、倒産しても、「神様・仏様から頂いたものだ。有難い!」ということなのです。

起きてしまったのであれば、それは事実なのだから、そのまま受け取るしかない訳です。

それを人間のモノサシだけで判断すると、「それは悪いことだ」と思い込んで、くよくよしながら日々を過ごすことになります。

だから、

「どんなにつらい現実であっても、それは神様・仏様の”はからい”なんだ。」

「神様・仏様は、どういうお考えか私には分からない。」

「しかし、神様・仏様は私たちを幸せにすることを、きっと願っておられる。有難いことだ。」

そのように受け取って生きてゆくところに、救いがあるのではないでしょうか?

ここで、心得え違いをしてはいけないのは、「有難い」と受け取ればうまくいくと考えてしまうことです。

それは、打算的な「はからいの心」です。

そうではなくて、「病気は有難い。治ったら治ったで有難い。治らなくても有難い」ということなのです。

神様・仏様の願いは、「全ての人を幸せにしたい」ということです。しかし、神様・仏様は全ての人に、同じような結果を下さる訳ではありません。

大学の入学試験を例にとれば、定員がある以上、全員が入学する訳にはいきません。

ある人は合格し、ある人は落ちます。誰かが落第しないといけないのです。

しかし、大学に落ちた時、「いま自分の望みは叶えられなかったけれども、これは神様・仏様のはからいだ。有難いな」と、受け取ることの出来る人に救いがあるのです。

私たちは執着が強くて、人間のモノサシにしがみついているので、なかなかそれが信じられません。

しかし、ありのままを受け取ることができれば、そこに救いがあるのです。



病気になったら、病気になったということ

「ありのままを受け取る」とは、「すべての努力を放棄する」ということではありません。

もしも病気になったら、医者にかかり、薬を飲み、しっかりと摂生するのです。

「ありのままを受け取る」とは、病気になったら病気になったということなのです。

病人であることを、そのまま楽しむのです。いわば「幸せな病人」になることです。

「早く治さなければ」と焦ったり、「どうしてこんなことになったんだ」と恨んだり、「もっと良い治療法や病院があるのではないか」と、のたうち回ってかけずり回るのは「不幸な病人」です。

お釈迦様の教えは、「あなた方は、思うがままにならないことを、思うがままにしようとして、苦にしているんだよ。だから、苦にするな」と言うものです。

そして、思うがままにならないことを、思うがままにしようとすることを「努力」というのです。

つまり、それは欲望です。

一方、「精進(しょうじん)」とは、思うがままにならないことを、思うがままにしようとしないことです。

ただ出来るだけのことをやらせて頂く。思うがままにしようとしないで励むことなのです。

いつまでも若くありたいと、厚化粧したり派手な服装をしたりするのが「努力」で、良い年寄りになろうとするのが「精進」ですね。

同じように派手な服を着ているのでも、自分は歳を取っていて、人様に地味な印象を与える、自分の肉体に華がないから、若い時には若さだけで輝いているけれども、歳を取ったのだから、ちょっと派手な服装をして回りを引き立てようとするのが精進です。

私たちは、幸せだから精進できるのです。

不幸だと、一生懸命にムダな努力をしてしまうのです。

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以上、本文より一部抜粋でした。

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