2017
07.29

自灯明 (じとうみょう)

2016/3/18更新記事


「心のよりどころ」をテーマとして禅宗の名言集を読んでいたところ、「自灯明(じとうみょう)」という言葉に出会いました。

『自灯明』

自ら灯した明かりを頼りに自分の人生を歩いてゆく。その潔さにとても惹かれます。

この言葉を見ていると、「自分の人生なんだから、やっぱ、そうあるべきだよなぁ…」とすごく納得できる気がします。

『自灯明』

・人との関わりに嫌気がさした時、
・思うようにモノゴトが進まない時、
・自分に自信がなくなった時、
・自分のこれからが不安になった時、
・自分の老いの進行を痛切に感じた時、


そんな自分の心が弱った時に、この明かりさえあれば、再び前向きに進んでいけそうな気がします。

そしていつの日か、自分が足腰が立たないよわっちい爺さんになり果てた時にでも、一人、介護施設のベットの上で穏やかな最期を迎えられそうな気がします。

『自灯明』

この教え、忘れまじ!

良い言葉に出会えました。これが本日のブログテーマです。

各記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っています。興味のある方は是非、本サイトの他の記事もお読み下さい。

きっとあなたにとってお役に立つ記事とたくさん出会えると思いますよ♪


▲http://ins8.net/diary/event

『自灯明』

自分の光を「よりどころ」とするということです。

どこかの光を奪ってきたり、誰かの光を持ってきて、自分を照らそうとするのではなく、自分自身の光を遣う・・・。

これは、自立するとか、他者の力を借りないとか、そういう話ではありません。

自分とつながっていない間は、他とつながることもない。

そして、そもそも自分とつながっていない瞬間などはじめからない。

どこかから持ってくる必要もない、おこそうとする必要もない、

自灯の明

人は、自灯明に氣づいたとき、

世界と自分との間、
他者と自分との間、
自分の肉体と意識の間、
時間を感じている自分、


すべての内に、自分自身を発見し、自分の在り方を選択しはじめるのかもしれません。


▲http://www.jyofukuji.com

「自灯明・法灯明」は、釈尊が入滅される前に、弟子に示された最後の教えだといわれています。

「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」ということです。

釈尊の死が間近であったときに、「師が亡くなったら何に頼ればよいのか」と嘆く弟子のアーナンダに対して諭された言葉です。

弟子のアーナンダにとって、常に寄り添い仕えた釈尊は、教えの導きの師であり心から頼りとする偉大なる師でした。

その師が亡くなってしまったならば、「そのあと自分は誰から教えを受け、どうやって生きていったらよいのか」と、彼は途方に暮れてしまった訳です。

そんなアーナンダの問いに答えて、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ」と釈尊は説かれました。

ここで「法灯明」ではなく「自灯明」が先に来ているのは、お釈尊自らが説いた法ばかりを頼らないで、まず「自分自身を拠り所にしなさい」ということ。

「法」を頼りにすることは、外部の決まりごとに従えということですが、

ただ、法に従うことにのみ忠実になってしまって、法の奴隷になってしまうことの無いように「己こそ己のよるべ」ということです。

「仏陀感興のことば」には

この世では自己こそ自分の主である。

他人がどうして〈自分の〉主であろうか。

賢者は自分の身を調えて自分の主となる。

賢者は自分の身を調えて自分の目的を達成する。

賢者は自分の身を調えて自分の徳目を達成する。

賢者は自分の身を調えて自分の名声を得る。

賢者は自分の身を調えて自分の名誉を得る。

賢者は自分の身を調えて自分のいろいろの幸せを得る。

賢者は自分の身を調えて自分の永く天の世界にあって楽しむ。

賢者は自分の身を調えて自分の明らかな智慧を獲得する

賢者は自分の身を調えて自分の親族の中にあって輝く。

賢者は自分の身を調えて自分の悩みのうちにあって悩まない。

賢者は自分の身を調えて自分のいかなる束縛も断ち切る。

賢者は自分の身を調えて自分のすべての悪い領域 を捨てる。

賢者は自分の身を調えて自分のすべての苦しみからのがれる。


「自己以外の何ものにも頼ってはならない」ということの真意は、「自己の内奥に潜む仏性を認識し、そしてその自我本性である仏性と、ダルマ(真理・理法)という自己の内なる仏性と同質の‘絶対真理’のみを頼りとせよ」ということなのです。


▲http://yamayoshi.hatenablog.com



小池龍之介さんの著書
「ありのままの自分に気づく」を読みました。

この本は、他者からの「承認」 に一喜一憂せず、善でも悪でもなければ何者でもない「ただの自分」、“ありのまま”の自分を受容しようという内容です。

本書の内容を鑑みると、他の「自己肯定」の記事とはちょっと方向性の違う内容になっているかもしれませんが、感想と合わせてまとめていこうと思います。

自己承認は成り立たない

本書は4章構成になっています。

その第1章「承認について」の序盤で、住職である著者は、「自己承認は成り立たない」と断言しています。それはなぜか。

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老子や荘子の老荘思想の中には、自分が立派になったことを口で言うとか、自分がエコな生活をしていて、自然な生活をしているということを口に出して言いたがる時点で、それはもう自然ではないという思想があります。

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自分で自分について、「自分はこれだけいいことをしている」とか、「これだけ優れている」などと口にしたところで、それには信憑性があるのだろうかということです。

借金をする際、自分が自分の保証人になることができるのだろうか、それは明らかにできないですよね。

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「自分が自分を承認する」ということは説得力を持たず、それは成り立たず、自分が自分を支えることはできない。

まさにそれゆえに、他者の支えが必要になってしまうということが言えるのだと思います。

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いくら自分を承認しようとしても、「それは自分でそう思い込んでいるだけじゃないの?」と言われてしまえば、説得力を持たなくなってしまう。

それが自然だ、本来の自分だ、と言っても、言い聞かせているようで、逆に不自然に映ってしまう。

自らを承認することは難しく、ゆえに他者からの承認を必要とするが、それでも絶対的な承認をもたらすことはできないと、著者は書いています。

人が誰かを褒めるときや、好意を持つとき、その対象となるのは、その人の一部分でしかない。

イケメンだとか、髪がきれいだとかいった外的要因はもちろん、

気立てがいい、一緒にいると楽しいといった、性格的な面もそうだ。

しかし、それらは不変のものではない。

この世は無常であり、容姿は年を経て変化するし、いついかなるときも「良い人」なんてのは存在しない。

場面場面で見れば、良いこともするし、悪いこともする。

無条件の愛などなく、何らかの条件なしには、人は人を承認できない。

そのため、ある人のある要素、パーツを好きになったとしても、それはその人そのものを承認することとイコールではない。

「承認」は不確かなものであり、それに依拠しすぎることによって、孤独感や渇愛が増していくこととなる。

……なんだか、夢も希望もないように感じますね。

孤独と渇愛

じゃあどうすりゃいいんじゃい!と考えたとき、「ただ無条件に受け止めなさい」と説明しているのが次の章です。

何々を満たしたから受け止めるのではなく、ただ、受け止めるだけ

イライラしているときは、「そっかー、イライラしてるんだねー」と気づいてあげる。

やる気がでないときは、カラ元気を出さずに、「やる気が出ないんだー、ふーん」と認めてあげる。

そのような無条件の承認は、自分にしかできないものだ。

他者からの承認を得ようとすれば、「◯◯だから」という条件が必要になってくるし、その条件も移ろいやすい。

自分で自分を、「うん、そうだね!」とだけ承認してあげることで、「精神的自給率」を上げることを著者は薦めています。

また、「渇愛について」の章では、人は自分という色メガネを通してしか世界を見ることができず、ゆえに人間はみんな自己中だ!と説明しています。

自分を褒めてくれる人は好き、批判してくる人は嫌い、それ以外の関わりのない何十億の人間はどうでもいい。

++++++++++++

対象をありのままに受けとらずに、「良い」「悪い」「どうでもいい」という主観的な歪みを加えるので、世界があるがままには見えない。

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「私にとって」というメガネを取ってしまうと、好ましい存在だけでなく、嫌な存在も実在しない。

「好ましい」とか「嫌」というのは、ありのままの世界には存在しない、脳内でつくられる妄想なのです。

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そんな「私にとって」しか見えない感情で生きている僕らは、日頃、「良い」や「悪い」の感情と同居しながら生活しているが、

たとえ良いことがあって満足したとしても、すぐにまた「不満足」の状態に戻ってしまう。だから苦しいと書いています。

「私には理想のパートナーが欠けている」と考え、それを見つけたとしても、いつの間にかそれが当たり前になり、他の人を求めてしまう。

「仕事で成功したい」と考え、一生懸命働き、周囲から賞賛されたとしても、

その刺激に慣れてしまい、他の刺激を求めるようになってしまう。

ありのままを受容し諦める

いやいやいや、そんなこと言われたら、もうどうしようもないじゃないっすか!と叫びたくなりますが、本当にどうしようもないらしいです。

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圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。

良い意味で諦めてゆくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。

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常に中立的な立ち位置に自分を据えて、「良い」も「悪い」も、「こうなりたい」も「ああするべき」も、ぜーんぶ、その感情があることに気づき、受け止め、見届けるだけ。

+++++++++

感情とは、すこぶる無常なものであり、どのみち変化してゆくもの。

「この感情も、やがては変化する。一時的なもの、無常なもの」という思いで、執着せず、ただ変化を眺めてみる。

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つまり、究極の自己肯定とは、今、そこにある自分を肯定も否定もせず、ただ“ありのまま”に受け入れること。

「自己『肯定』を『肯定』しない」と言うと、矛盾しているようにも見えます。

けれど、「肯定」の裏には「否定」があると考えれば、それらの判断基準から解き放たれ、単に「そこに在るもの」としてだけ自分を認めることは、「肯定」と言えるものだと思う。

ただ、この“ありのまま”という視点も含めた本書の内容について、辛い時、苦しい時の「考え方」の処方箋としては賛成できるけれど、それを常に実践しようという気にはなれませんでした。

何に対しても中立的。

好きも嫌いも、ただ「そういうもの」として受け止めるだけ。周囲にも自分にも期待せず、ただただ、自然の一部として生きていくのみ。

それは、仏道に入り、苦楽から解き放たれて悟りを得ることを前提とすれば、正しい道なんでしょう。

けれど、俗世の社会で生きる僕らにとっては、そんな生活に「生」を感じるようには思えない。

……俗に染まりきった僕だから、こう考えてしまうのかな?

ひとつの視点として、方法論としてならば、非常に為になるものだとは感じました。

結局のところ、

自分は自分の視点でしか物事を見ることはできず、「客観的に見ると」なんて言葉は本来使えないもの。

けれど、そこで「自分」を遠くへぶっ飛ばすことを試み、できるだけ「中立」的な視点を考えようとするモノの見方、他者とのコミュニケーションに疲れた時の受け流し方、諦め方としては、多くの人にとって有意義な思考法だと思います。

このように考えられる人が、いったいどれだけいるんだろうと考えて、軽く絶望した。

無理だべ。

そんな僕らが「自己肯定感」を得ようとするのなら、本書はひとつの視点をもたらす手助けとなるはずです。

自分を知り、認め、肯定するには、「念(きづき)」を得る必要がある。

そのための方法論も、軽妙ながら優しい語り口で論じられております。

新書としては結構なボリュームのある作品(303ページ)ですが、

仏教の経典や哲学書からの引用も多く、良いテンポで読むことができ、気づきの多い内容でした。


▲http://www.saumondesushi.co

何事も自分事として捉えることが、
人生を味わう第一歩であること。


世の中には不安を煽るような記事などがたくさんあり、

「不安が現実化しないように」一生懸命になって成功しよう・健康でいようなどとたくさんの人が意気込みます。

ですが、それはあくまでも「他人の軸」でしかありません。

「老後これくらいの貯蓄が無いとダメ」
「血圧がこれ以上高いとヤバイ」

これはあくまでも客観的から見たものですね。

もちろん貯蓄がゼロだとか、血圧が180くらいですという過剰なのは抜きにしても、こういった「他人の評価基準」を自分の人生の基準にしてしまうことに、問題は潜んでいるかと思うのです。

例えば人間関係でも、「他人の評価基準」を人生の軸にしてしまうと、

"その人が嬉しいと思ってるかどうか"で自分の人生が決まってしまいます。

友達が喜んだ、だから私も嬉しい。

上司がイラついている。
だから私もイラついている。

他人から見られている自分がどうかで、自分の評価が決まります。

ただ、その他人というのも十人十色です。これ、すっごく、疲れます。

仕事を始めた頃の私は、間違いなくこれでした。

あの人が喜ぶことはこういうことだから、こういう感じに話をもっていこう。

あの人はこういうことをすると嬉しいって言ってくれるなあ。

仕事が重なった日の夜はドッと疲れが。

ある時、(良い意味で)他人に合わせるのは面倒くさーーーい!って振り切れた時から、とても楽になりました。

合わせなくても良いんだ。私には私の生き方や価値観がある。

今までのベクトルとは、逆のベクトルになりましたが、それが良かったようで、良い意味でありのままになれた気がします。

自分に正直になると、自分の価値観が分かります。

私は、何を好み、何を嫌うか。

私は、身体を動かす、という事でも、長く走る事は嫌いです。

泳ぐ事も嫌いです。でも、それが私です。

私は、何に興味を持ち、何に全く興味を示さないか。

私は、人の身体の不思議に興味があります。お菓子作りには全く興味がありません。

そして、何が私となるのか。

自分の軸が決まる事で、相手や周りの物事に動じなくなります。だからこそ、自分自身に正直になる。

自分自身を楽しませ、成長させることが生きる醍醐味であること

私は、今までの人生では、他人からの評価で生きてきました。

他の人にホメられたり、すごいねって言われるのが嬉しくてそれが目的になっていました。

だから、他の人に負けるのが本当に嫌でした。

そしてホメられなくなると、その行動自体にも意味を感じず、それをすることを辞めていきます。

嫌だったというより、怖かった。という表現の方がマッチすると思います。

どういう自分がどうなるかというと、"負けないフィールド"で勝負をして来たんです。

学校のテストも、余裕余裕言いながら、家で結構やってましたしね(笑)

でもこれって、本当に、いつかガタが来るんです。

ガタが来た途端に自暴自棄になり、何もかもが崩れて行くのを感じます。

私は間違いなくそうでしたし、年を重ねれば重ねる程その経験が多くなってきました。

勝負という世界には、上がこれでもかという程いるからです。

そしてそういう時こそ、「組織のせい」をはじめとする、自分以外の環境へと責任転嫁をするわけです。

この時が人生で一番落ち込んでいたと思いますが、その時が無ければ今は決してなかったので、事実は事実として受け容れています。もう今となっては動かせない過去ですから。

で、先述の、面倒くさーーーい!って振り切れた時から、本当に自分の魂が喜ぶことをやろう!って決めたんです。

だから、少しでも自分の中に違和感や自我を感じた場合には、すぐ自分に問います。

本当にそれで良いの?って

全てにおいて半信半疑になったという表現になるのかも知れません。

その問いがあると無いとでは、積み重ねが違ってくるかなと今は感じています。

その問いのお陰で確信を得られたり、逆に方向修正出来たりするわけなので。

昨日の自分より成長する為には、必要な質問だと思います。

自分主体になると、その時から毎日がガラッと変わりますし、何よりも「他人と比べてどうか?」ではなく、「昨日の自分と比べてどうか?」っていう視点に全てが切り替わります。

楽しいですよ、これ。

あ、昨日はこれ出来なかったけど今日出来た!

あ、昨日はこんな感覚無かったけど、分かった!

とか。

すると、一瞬一瞬が学びということに気付くんですね。

そこから感じられることは自分の人生を生きてるという実感であり、楽しい、嬉しい、幸せ…そんな感情だと思います。

外のモノ、つまり、他人、新興宗教、お金、物、故郷などに依存することなく、自分に依存(帰属)する。

人は、帰る場所があると安心します。だから、自分自身に帰る。

目をつぶれば、夢も現実も変わらなく、まぶたの中に存在しています。

それは、誰がなんといおうと、あなたが思い描く、そしてあなたにしか思い描けないひとつの物語。

今まで紡いで来た、変えられないものは、喜んで受け容れる。

生まれた国・土地・先祖・両親・性別・身長・体重・過去全ての事

これから紡いで行く、白紙のものは、自分主体でこれから創って行く努力を。

それを〈身体から〉という一つのきっかけがあっても良いのかな。

そう考えた夜でした。


▲https://happylifestyle.com

幸せになるためには「ありのままの自分」でいることが前提条件です。

本来の自分はそれで十分完璧で、変える必要などありません。

しかし、残念なことに、多くの人が憧れの人になろうと無理をしています。

自分の好きなアイドルに憧れて、自分も同じようになろうと努力をします。

着ている服を真似たり、話し方を真似たりして、自分の憧れに近づこうとします。

私も中学のころ、音楽に没頭していたこともあり、憧れていたミュージシャンの身なりを真似していた時期がありました。

おそらく、話し方やしぐさまで真似しようとしていたはずです。

そんなことをしているうちに、私は本当の自分が分からなくなってしまった経験があります。

同じような経験がある人だと分かってくれると思うのですが、自分が自分以外の人になろうとしても、違和感があるのです。

本当の自分が1とします。自分が求める憧れの人を2とします。

自分が憧れの人に近づこうとしているとき、1から1.2へ近づき、1.2から1.4へと近づきます。

しかし、どうも完璧な2には、なれません。

生まれも育ちも違うため、どんなに努力しても自分の理想の2にはなれないのです。

そのため、中途半端な1.5くらいのところで、止まってしまうのです。「1.5」というのが、中途半端です。

自分でもないし、憧れの人でもない。中途半端な、わけの分からない自分になってしまうのです。

私は、自分が追い求める憧れに近づこうとしても結局無理であるということが分かりました。

結果として残ったのが、中途半端な性格の自分だったのです。もう自分がなんだか分からなくなりました。

自分ではない人に、自分がなろうとしてしまうと、自分が分からなくなってしまうのです。

自分を憧れの人とすり変えようとすることは、本来不可能なことなのです。

しかし、あなたは唯一完璧な存在になれる人がいます。

「あなた」です。あなただけは、完璧です。あなたになろうとして誰かが真似しても、あなたになることはできません。

それでいてあなたは、あなたになることができ、あなたを完璧に演じることができています。

あなたはすでに、「あなた」という完璧を手に入れているのです。

ここに早く気づきましょう。

あなたが、恋い焦がれて好きになるべき人は、誰でもない自分なのです。

唯一、あなたは、あなたにだけは完璧になることができています。

何も自分を変える必要などありません。「ありのままの自分」を好きになればいいのです。

憧れる人になろうとして努力するエネルギーがあるなら、自分を好きになることにエネルギーを使うことです。

自分を好きになれば、あなたは自分を完璧に演じることができますから、まったくの無駄がありません。

すべてが自分らしくて、完璧な個性を出すことができています。

今、私は自分が好きです。

自分という好きな人になることができていますから、自分を無理やり変えることもありません。

このままでいいのです。いつも素直な自分で生きることができています。

私は、人から「素直だね」と言われることがありますが、

自分が自分らしくしているだけですから、素直になることも当然です。

あなたが「一番好きな人は、誰ですか」と聞かれたら「自分です」と答えられるようになればいいのです。

一番は、必ず自分でいることです。2番、3番は恋人や家族でいいのです。

「自己愛の強い人」とも言えますが、自分で自分が好きでなければ、誰を好きになるのですか。

自分が好きでなければ、自分という存在が崩れます。

自分を好きになれない人は、他人も好きになれません。

自分のことが嫌いだと言っている人は、決まって不幸そうな顔になっています。

しかし

「自分のことが好き」だと言っている人は、決まって幸せそうな顔になっています。

あなたの周りにいる人に当てはめてみましょう。テレビの中の人物でもかまいません。

自分のことを嫌いだと言っている人は不幸そうですが、自分のことを好きだと言っている人はとても幸せそうにしているはずです。

好きな人が、自分であるかどうかが大切なのです。

好きな人が自分であれば、完璧な人になりきれるので、困ることはまったくありません。

自分が「ありのままの自分」でいることこそ、一番幸せなことなのです。

自分以外の人になろうとするのはやめることです。「ありのままの自分」を好きになりましょう。

「ありのままの自分」が、一番幸せなあなたなのです。

自分以外の人になるのは、やめましょう!

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