2017
08.14

お坊さんにお経を読んでもらう意味

Category: 雑記つれづれ


先日、私の叔父さんが95歳で亡くなりました。

お通夜の時に、お坊さんが20分~30分お経をあげていましたが、生前、家に仏壇がなくお経をあげたことがない人の旅立ちにお経をあげても、本人に理解できるのだろうかと言う不謹慎なギモンがよぎりました。

本日はお盆ということで、「お坊さんにお経を読んでもらう意味」について検索しました。

たくさんの記事を掲載していますので、普段はあまりなじみのない(お坊さんが読む)お経に関して、なるほど!と合点する箇所があれば幸いです。

記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っていますので、興味のある方は本サイトもご覧下さい。

「へえっ!」という記事がたくさん掲載されていますので、面白いですよ♪


▲福岡の霊能者・佳蔵院

お経が霊に与える影響

人が亡くなったあと、お迎えがない、また「死」が理解できない魂を包むものは、深い暗闇です。

意識(魂)がいくら叫んでも、誰も応答してくれません。

なにがどうなったのか分からないまま、暗闇の中をさ迷い続けます。

そんなとき、ある振動に気付く時があります。それまで、暗闇以外に何もなかった中で、ある振動に気付くときがあります。

恐らく亡くなったあと、お迎えがなかったり、また死を悟ることができなかった意識(魂)が初めて気付くものは、お経の振動や悲しみのような感情(振動)だと思います。

悲しみのような感情(振動)とは、亡くなった方へ向けられた、家族や友人等の悲しい気持ちのことです。

振動と書いていますけど、音が空気中を伝わるときの振動と同じように考え下さいね。前回のブログでも書いていますけど、この世と霊的世界は表裏一体の関係であって、例えば、空気中を伝わる声の振動と表裏一体にあたる振動が霊的世界でも流れると思って下さい。

暗闇の中で、お経や悲しい感情のような振動に意識(魂)が気付いたとき、「死」を理解し始めることでしょう。

もしかして、自分は死んでしまったのではないかと思うようになってきます。

お経や悲しい感情のような振動が意識(魂)の中を流れ続けるなか、「死」を悟り、また死を受け入れたとき、お迎えや神仏の光等が現れ、導かれていきます。

このようなことを考えると、お葬式等で上げられるお経に意味が生じてきます。

お経に書かれている内容を理解できなくても、「お経」がきっかけとして、「死」を理解できるようになっとです(¯―¯٥)

実はお経だけでなく、他宗教の儀式でも同じことが言えます。

例えば、神道の神葬祭やキリスト教の葬儀において行われる祭詞や賛美歌等の声の振動が、表裏一体の振動として霊的世界でも流れます。

葬儀に集まった方の深い悲しみ・・・
 
例えば、「泣く」「偲(しの)ぶ」等の声の振動も、表裏一体としてその振動が霊的世界でも流れます。

大勢の方の悲しみが、また家族の深い悲しみが霊的世界を流れる一つの振動(信号)として、流れます。

魂(意識)には耳はありませんから、普段私達が耳で音を聞くのと同じといわけではありません。

しかし、意識=魂=記憶=情報には、生前に聞いた記憶が残っているとです。

生前に聞いた覚えのあるお経や賛美歌等が魂の中にあるとです。

「亡くなった方に向け」て、この世で発せられたお経や悲しみの振動が霊的世界においても、似たような振動(信号)として流れ、その振動に生前の記憶(魂の記憶)が同調したとき、「お経」や「哀悼(あいとう)」を認識できるとです。

お経に書かれていることが分からなくても、お経が意味するものを悟るとですたい。つまり、自分の「死」を理解できるとです。

お経に書かれている内容が生きている人へのアドバイスであったとしても、お経は葬式等で上げられているので、お経から「死」を理解できるとです。

自分が死んだから、お経が上げられているということ、また悲しまれていることが分かるんですね。

(中略)

お坊さんによるお経が特別というわけではなく、私達がお経を上げる目的や感情等が大切になってきます。

お坊さんにお経を読んでもらうことに意味はあるのか?


▲Yahoo!Japan 知恵袋

仏教でお坊さんにお経を読んでもらう事に意味はあるのでしょうか?

葬式や法事(三回忌・七回忌・13回忌など)で、お坊さんに多額のお金を払ってお経を読んでもらう事に疑問を感じています。

おそらく、「お坊さんのお経がありがたいから」というのが理由でしょうが、本当にお坊さんのお経はありがたいものなのでしょうか?

現在の日本の僧侶は、世襲で、世俗的な生活をし、私たち世俗の人間と全く変わりません。

タイなどの厳格な仏教国の僧侶のお経なら、ありがたく感じるのでしょうが。

私の知っているお寺の住職は、三回忌・七回忌など30分の法要でお経を読んでもらう費用が、暗黙的に5万円以上らしく、3万円のお包みだと、露骨に玄関に受け取りにも来ません。

私は、多くの日本人が儀式的に、また世間体から法事を行って多額のお金を払っている事に疑問を感じます。

仏教徒なら、自分たちでお経を読んで供養すれば、それで良いのではないですか?

このままだと、日本人の仏教離れが進んで、いずれお寺は無くなってしまうと思います。




世襲制だけの問題でなく、仏教自体に関心はないのに法要など儀式などの際だけ寺院を利用しようという一般的な民衆の考え方の問題も大きいでしょう。

葬式仏教化というのは、寺院側だけが悪いのではなく、法事や葬儀での収入でしか寺院経営が成り立たない状況に陥らせた檀家の責任でもあるのです。

タイの仏教を例にあげておられますが、現地の民衆と日本の民衆とでは寺院や仏教に対する基本的意識がまるで違います。

本来、寺院は僧団(仏教徒の仲間)が集まり、仏法を学ぶ、教えを聞くための道場です。

道場を敬い、道場を守るために、また自分の修行のために、件の国の民衆には喜捨・布施の精神が基本的にあります。

多くの日本人には教えそのものを学ぶ意識は薄く、自分たちの寺院を守るという意識は皆無に等しいでしょう。当然、喜捨・布施の精神などありません。

布施と言えば法要のお礼、或いはお経代、喜捨といってもそれによって何らかの功徳を得ようとする邪心を持ってすることも少なくないでしょう。

願望成就や災厄除去、先祖崇拝や魔除けなど本来仏教と関係のない民間信仰や欲望の拠り所として仏教を見て、利用している場合がほとんどです。

少しでも本気で仏教を学べば、今の日本仏教の在り方、仏教徒(「家の宗教が〇〇宗」、程度の)の在り方の中に本来の仏教がないことは明らかです。

お経はいくら読もうが、僧侶が読もうがあなたが読もうが意味が変わる筈もなく、また読んだだけでは何の功徳もありません。

お経は、生きている者が生きているうちに背負うあらゆる苦悩を生きているうちに解決するためにお釈迦様が説かれた教えを、様々な表現でまとめ上げたものです。

よって、先祖供養だの願望成就だのといった現世利益や来世利益とは全く関係ありません。教えは実践して初めて意味があるのです。

お経だけ読めば何かの利益があるだろうというのは、意味を理解しなくてもただ教科書の文字面さえ追って読んでおけば、或いは誰かに読んでもらえば成績があがるだろうと考えるのと同じです。愚かと言わざるを得ません。

教え自体に興味がないなら、檀家などやめて仏教徒もどきなどやめてしまえば良いのです。

法要や葬儀という寺院の行う仏教ビジネスを利用するのであれば、そう割り切って利用すれば良いでしょう。

同じ儀式ビジネスを利用しながら、結婚式では高額でも文句を言わない人が、葬儀・法要では不平を並べる人が多いのは困ったものですよね。



お寺の財産はお坊さんのものじゃなくて、檀家全体のものです。お布施がなきゃ、寺院の維持管理ができません。

もともと、多くの神社仏閣は、寄進された田畑が経営基盤でした。

しかし、戦後のGHQによる農地解放令で、そのほとんどを失くしてしまいました。

一律に農地解放を進めたGHQの政策、無茶だったんですよ。

で、寺域すら失くしてしまった寺院が頼れるのは檀家制度だけになってしまった・・・。

檀家30軒余りの寺院、食っていけるわけがない。住職のなり手すらなく、荒廃、寺宝散逸・・・。

天皇家や摂関家の勅願寺、檀家すらないよ。

格式が高いから、寺宝類を大量に所有、で、観光寺院化するしかなくなっちゃった。

国や自治体の文化財保護行政は貧困で、義務負担分すら支払われず、文化財が売りに出されて海外流出の危機にある、で、新興宗教に頼んで買い取ってもらい、国指定の文化財にしてるんです。

国立博物館は特殊法人化され、独立採算制だから、かつてのように文化財を購入することもままならん。

義務負担分を出すのが嫌だからと、都道府県じゃ文化財指定をやめたところまであるのよね。

で、無指定の文化財がいきなり国の重要文化財に指定されたりしてる、寺院が全額負担して、修理したら指定を受けてる状態なんですよ。

つまり、檀家制度を止めちまったら、あっという間に寺院会計が破綻して、寺域は荒廃し、寺宝類は散逸して海外に流出してしまう・・・。

実際に、滋賀県にある鎌倉時代の十二天画像、これ、もの凄く珍しいんだけど、ボロボロになってて、どんどんと剥離が進んでるのを見たことがある。

修理代、最低でも一本300万、状態が悪きゃ7~800万はかかってしまう、そいつが12本セットで残ってるのね。

日本でおそらく3番目くらいに古いもので、国宝クラスなのよ。だけど、国どころか県も市も文化財に指定しようとせん。

檀家50件余り、それでどうやって5000万近い修理費が負担できます?

良心的なお坊さん、いっぱいおられるよ。で、寺院経営に頭を痛めていらっしゃる。

檀家であるってことは、その寺院を維持管理する義務があるんです。

GHQが寺院財産の田畑を取り上げちまった以上、檀家が何とかする以外に残された道はないんです。

法事のお布施を払うのが惜しいのであれば、檀家を離脱して無宗教になればよい。それだけのことですわ。

お経を唱えていただく意味はあるのか・・・。

仏教徒である以上は、仏教の勉強をせにゃいかん、そこで仏弟子であるお坊さんが、お経を読み聞かせるわけです。

生きてるうちにやればいいことを、死んでから立派な戒名くれだの仏弟子にしろだの浄土に連れて行けだのというから、お金がかかる、何の意味があるのよってことになる。

生きてるうちに戒名をいただいて仏弟子となり、仏教学の勉強をすればよい、ただし、そっちの方がずっとお金も時間もかかるよ。

ですから、輪廻なんか信じてない、死んだら終わりであとは知らん、戒名も法要も要らないと仰るのなら、あえて檀家である必要などないですよ。



世襲制以上に、一般の方々の関心の無さが一番の問題でしょうね。

お坊さんが幾ら一生懸命にお経をあげても決して人は救われません。

シナ(現在の中国)ではお経そのものに力があり、お経を読むとで人は救われると考えられていました。

ですから、良いご利益が連ねられているお経が喜ばれた訳です。

代表的なものが天台智顗(ちぎ)の五時八教ですが、日本の仏教はその考えをそのまま輸入して現在に至ります。

日本の仏教が葬儀のときに教をあげるのはそういった背景があります。

でも、明治になり日本の僧侶がイギリス(明治時代のインドはイギリスの植民地)に留学できるようになると、法華経を初めとして全ての大乗仏教は仏陀が入滅して500年以上してから創られた創作物だい言う事が解ってきました。

専修大学で使われている歴史教科書にもそのように載っています。

また一方で、仏陀釈尊は経典を創りませんでしたが、仏陀の直弟子により創られたのが阿含経のみだということも解りました。

阿含経典は、ご利益は一切載っていません。

殆んどが修行法と修行に対する心構えに関する文献です。

例えば、自動車の教科書をいくら声高らかに音読しても、自動車の運転は上手くなりませんよね?。

仏陀の残された経典である阿含経をいくら読んでも、人は成仏しませんし死者が救われる事はありません。

現在のお坊さんはこの事を専修大学で確り学んで来ていますが、だからといって直ぐに千年以上の因習が切れるわけではありません。

結局の所、私たち自身がお坊さんに丸投げしている限り解決しない問題です。

失礼とは思いますが、貴方の親が亡くなったとしてお坊さんに、

「葬式は挙げません。」「経典を読まなくても結構です。」と言えますか?。

恐らく無理でしょう?。

親類や、周りの地域住民の感情がありますからね。

結局は、世間一般(自分自身を含めて)の無関心の常識がある限り、世襲制であっても無くても変わらないと思います。



葬式にしても法事にしても亡くなった人には無意味です。

建前は故人のためですが、それらは生き残った人のためになされるものです。

それが必要なことなのか、大事なことなのか、考えるべきことだと思います。

御経料が高いか安いかですが、これも5万円が相場のようになっているようなら3万円は安いと思われるは人情でしょう。

しかし、お布施というのは出せる者はできるだけ多く出し、受け取る方はその多寡を気にするようなことがあってはならないと思うのですが・・・。



お経は生きている私たちへのお釈迦様の説法です

お釈迦様は亡くなった方への説法はしておられません。


ですから亡くなった方に聞いて頂くお経は一つもありません

お布施は、その教えが孫子の代までずっと続くようにお寺を維持するためのものです

仏教は涅槃の話ですが、お寺を維持するのは娑婆の話しですからお金は必要です。

檀家(メンバーシップ)で維持しているわけです。

私たち自己流で仏教を伝えていくことは難しいものです。

自分が仏教徒でお寺の檀家になっていると思っていても既に間違った仏教感があります。

自分が仏教徒であり仏教を伝えていく、という思いがなければお布施の額を問題にするようになります。

そういう方達は普段僧侶とコミュニケーションがないと思います。

どんどん話をして納得できなければ一度お寺から離れればいいと思います。それでなんの支障もありません。



私も僧侶ですが、結論は貴方が記されてるように、自分たちでお経を読んで供養すれば良いと思います。この結論に関しては異論はありません。

では、質問に記されてる内容を個々に疑問を記します。

「日本の僧侶は世襲で、世俗的…タイの厳格な仏教国の僧侶…」

日本の僧侶は大昔から、理想とされる僧侶も、世俗以上に世俗的な僧侶がいてます。今も昔も同じです。

タイでも最近大きなニュースになっていましたが自家用飛行機等を有し、女性をはべらしてる僧侶がいてます。

人間ですから、日本もタイも同じです。少し違うのは、タイでは出家と還俗が簡単に繰り返される事です。

簡単に言えば、女遊びをしたければ還俗し、また出家する。それを繰り返し行う事ができます。

「私の知ってる住職…」先に記しましたように、そのような僧侶もいてるでしょう。

ただ、法事のお布施が5万なら別段多いとは思いませんし、3万でも少ないとは思いませんね。

私も、法事のお経は30分程度です。短いと感じる人もいてるし、ちょうど良い、それでも長いと感じる人、それぞれですね。

本当にその差が露骨に態度に表れる僧侶なら、よく言えば正直、悪く言えば気が小さいかな。

「儀式的に…」宗教・信仰は儀式に対してお金を出してる部分は大きいと思いますよ。

例えば、安産祈願、生まれてお宮参り、お祓い、七五三、交通安全、合格祈願、結婚式、葬式…等無数に近いほど、神官・僧侶・牧師等が、宗教儀式を行い、それに対してお金を使っているのではありませんか?

法事もその内の一つでしょう。どれもこれも、どうしても行わなくてはいけない宗教儀式ではありません。

宗教に限らず、儀式とはそんなものです。そして、それぞれに気持ちを表す意味があるのです。

それらが全て「もったいない」いらないと思うなら、やらなければ良いですし、自分たちで行っても良いでしょう。

ただ儀式は人間が行う文化でもあり、動物の中でほぼ人間が他動物との区別できる部分でしょう。

「いずれ寺はなくなる」かも知れませんが、私はそう思いませんね。

政府や法律はころころ変わってますが、日本のお寺は千年以上、仏教は2500年以上、形は変わっても続いています。

*もちろん消失したり、廃寺になってる寺も多くありますが、それは近年に限らず大昔からの事です。

文献にあっても場所さえわからない寺はいくらでもありますからね。

単純に、昔から無宗教、無信仰者はいてますし、現代のように物質が全て、生きる死生観から、死が欠落して生観ばかりの人が多いのも事実ですが、逆に宗教を重んじる人も多いですから、寺は無くならないとおもいます。

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