2012
04.11

時代劇の楽しみ…江戸庶民の暮らし

Category: 雑記つれづれ

無芸大食の私は、趣味というものがありませんから、
週末になると、レジャーに出向く金はナシ、
テレビ三昧ということになります。



私の場合、テレビといえば「時代劇」です。
有線放送の「時代劇専門チャンネル」一筋です。

楽しみにしているのは、
週末の「鬼平犯科帳」とか「剣客商売」などです。

 

時代劇は、勧善懲悪で分かりやすく
見ていて疲れないというのが良いところですが、

私は、その映像の中に垣間見える
江戸時代の庶民の暮らしぶりに興味をそそられるのです。

そこで、江戸時代の庶民の暮らしについて
ネット検索でちょっと調べてみました。 



江戸時代の中期以降は、
生産力が上昇して江戸の都市は市場経済が拡大し、
100万人都市となっていたようです。

でもその半分は「武家」。
江戸は武家の町ですから、

土地の7割を武家が使って、寺社地が15%、
結果、庶民が住めたのは15%の土地しかない訳で、

そこにおおよそ55万もの人が、
ひしめき合って住んでいたことになります。

大部分の江戸庶民は、狭い長屋暮らしだったようです。

江戸周辺の地方からは
多くの労働力としての人材が江戸にやって来ました。

その多くは農家や漁師の次男や三男などです。
そして、彼らが住んだのが落語でもおなじみの「裏長屋」です。



江戸時代の長屋生活は、
真面目にしていれば食うに困る事は少なく、
結構楽しげな生活だったようです。

庶民は健康的で清潔な生活をしており
性格的にも明るいと、明治維新時期の欧米人が
江戸庶民への感想を述べています。

その背景には、
開けっぴろげの長屋生活が挙げられるでしょう。

長屋は、隣近所の音は筒抜けでプライバシーがありません。
夜には長屋単位で木戸が閉まられてしまいます。

井戸やトイレも共同で、
大家を頭にして裏長屋は全くの共同生活。



そして、この裏長屋の共同生活ゆえに、
相互扶助の生活が精神的なゆとりを生み出す
仕組みだったような気がします。

江戸落語の庶民の、ほのかな人情的な噺は、
このような文化から出てきたのだと思います。

長屋といえば、今で言えばワンルーム。
各戸には、かまど、炊事場、寝室兼居間がある程度。

長屋は寝るだけのスペースと思ったほうがよいでしょうか?
素泊まりのビジネスホテル並みですね。

その代わりに、銭湯や茶屋などが
コミュニティースペースだったらしく、

つまり応接間であり、集会所であり、
リビングルームでもある。

合理的なライフスタイルですよね

共有化することは、スペースの有効利用でしょう。
エネルギーの有効利用でもあるかも。
江戸時代、進んでますよね~

10歳くらいまでの子供と家族4人が
一緒に住んでいたと言いますから驚き。 

江戸の長屋は本当に狭いですね。
一世帯分の間口が一間半しかない。



★長屋の一戸のスペースは九尺二間(くしゃくにけん)

間口:九尺=約2.7m
奥行:二間=約3.6m
3坪 畳部分は4.5畳

よく言われる長屋の広さ。
これより狭いものも、広いもの、
2階付きもあったそうです。

九尺二間というのは、間口が九尺奥行き二間という意味で、
一間というのは1.8メートル、畳一畳分の長さです。

また九尺というのは2.7メートル、
一間半ということになります。

これですと、全部合わせても六畳で、
ここから土間とカマドの分を除いて、
座敷は、四畳半ということになります。

★合理的?な「枕屏風」の活用



当時の長屋には押入れなどはなく、 
布団はたたんで、部屋の隅に置かれ、
枕屏風で囲われ、屏風は目隠しの役目もしていました。

そして寝るときには、枕元に立てた屏風が
隙間風を防いでくれるのです。

枕屏風は枕元だけでなく、
窓際の冷気の遮断など、
いろいろな形で応用できます。

さすがに合理的! 

江戸時代の主な寝具には、
掛け布団、敷布団、枕があり、現代とそんな違いはないようです。

しかし、寝具の各々を見てゆくと、形状も拵えも大きくことなっています。
掛け布団には、袖と衿のついた着物に綿を詰め込んだ
「夜着」と言われるものがありました。



枕は初期は「くくり枕」で、
長方形の袋に蕎麦がらなどを入れた物を使用していましたが、
後に箱枕となりました。



これは、箱型の木の台の上に
蕎麦がらなどを入れた筒状の木枕をのせ、
表面に髪油の汚れを取る枕紙を置いたものです。

他に木の台の底が反りかえった船枕や、
撥の形をした撥形枕など種々の工夫を凝らしたものがありました。

町人は昼間は、これらの寝具を屏風で囲って置き、
寝る時は寝具を広げ、屏風を枕元に置いて風除けとしたそうです。
押し入れがない時代の工夫ですよね。

一方農民は、莚(むしろ)や藁を袋に入れた物を
布団や枕の替わりにしていたそうです。

★江戸時代の庶民の食事風景

毎日三食が定着したのは江戸後期で、
それ以前は朝夕二食が一般的だったそうです。

食事は、職人など体を動かす仕事なら
こまめに少量ずつ食べ、

大勢の人を雇う大店は集団生活なので、
社員食堂のような場所で一斉に食事をとったそうです。

他の自営の庶民は、食べたいときに食事をしました。

武家屋敷や大店以外では
みんなが同じ時間に食事をとる必要はなく、
その日の都合によって食事の時間帯はまちまち。

今のように、時分時だけ飯屋が混雑することは江戸ではありません。

江戸後期になり、一日三度食べるようになった頃の
江戸っ子の基本メニューの一例は、およそ次の通りです。

まず朝、一日に食べる量の飯を炊きます。
炊き立ての白米を、特別に御をつけて御飯と呼びます。

それに味噌汁。二種類以上の具を入れたものを「おみおつけ」が
朝食のアイテムです。他にタクアンと納豆などを添えます。

昼は、冷や飯に魚と、煮付け、
それに煮豆や佃煮などの常備菜を添えて、
ほうじ茶でいただきます。

おかずとなる、タクアン、煮豆、佃煮などは、
みな塩分が強く、白米をかっ込むための
補助食品といえます。

夜は、町の防災上、火を使うことを避けたので、
火鉢のお湯で冷や酒を茶漬けにしました。

朝炊いた飯をこのように食べきります。

また朝は、長屋の共同井戸場あたりまで
振り売りが入ってくる。





これは食品を入れた樽や篭を、
担ぎ棒の前後にぶらさげた行商人のことですが、

彼らが佃煮や干物、煮物漬物など、
調理済みのお惣菜を持って売りにくるので、

主婦はこれを買ってきてただ皿に盛るだけ
ということが多かったようです。

冷蔵庫がないのですから、
毎朝食事のたびに買うのが良かったのでしょう。

だから、この頃の主婦の朝の仕事は、
ご飯を炊くこととおみおつけを作ることくらい。

しかも、食べ終わった夫や子供の食器は、
毎回必ず洗う必要はなかったそうです。

食べ終わったら、ご飯の入っていた茶碗には
白湯かお茶を注いでもらい、欠片を掃除しながら飲み干す。

後は和紙でもってぐるりと拭いて、
そのまま伏せて容器にしまい蓋をする。
そんなスタイルが多かったとのことです。


★二束三文の由来

長屋には、納豆や豆腐、魚、砂糖水、油など
様々な物売りがやってきたそうです。

コンビニやスーパーがない代わりに、
商店が出張してきていた訳です。

仕事を怠けることを「油を売る」といいます。
菜種油は量り売りするのですが、

油は粘って枡から出きってしまうのに時間がかかります。
油売りは、この雫が終わるまで世間話をしている。

それが、怠けているように見える。
それで「あいつは、油を売っている」
となったのだそうです。

二束三文とは、下駄の鼻緒のこと。
下駄の鼻緒が、二足分で三文だったのです。

これを鼻緒屋が、
「はなおや~、下駄の鼻緒が二足三文」
と呼び歩きます。

縄や木綿、或いは竹皮の鼻緒は、
安いものの象徴だったのでしょうか?

二束三文とは、
江戸の物売りから始まった言葉なのです。

★江戸の職人















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まとめteみた.【時代劇の楽しみ…江戸庶民の暮らし】 dot まとめwoネタ速surudot 2012.04.11 22:46
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