2017
07.31

幸せのセルフ・イメージ



本日は、昨日のテーマ「自灯明」を灯すための方法論です。では、始めます。

人とのかかわりの中で、いきなりキレたり、いじけたりする人って周りにいませんか?

「ええっ!なんで?」みたいな…。「なんで、そこでキレるの?イジけるの?」みたいな…。

そんなお子ちゃまのような、おっさんやおばさんがいませんか?

そういう自分だって、相手の振る舞いでカッと来たり、傷ついたりすることがありませんか?

私なんかしょっちゅうあります。

「げげっ!俺、今、イジけてるぞ!」と情けなくなるときがあります。62歳にもなって、恥ずかしいことです。

このように、相手の言動やふるまいで、心が揺すぶられてしまうのは自己重要感が低いからなんです。

といっても、自己重要感って、強気すぎるのも「ごう慢」につながりやすいのであまり良くはないのですが、相手の都合を配慮し過ぎるのも、自分自身に過剰な負荷がかかってしまうのも事実です。

本日は特に、昨日の記事「自灯明」という教えに共感してくれた方で、人の良さと気弱の狭間で心を痛めている方に読んで頂きたい内容です。

そのお題は「セルフイメージ」です。

自分が苦しい時ほど、自灯明をあかあかと灯すためには、「セルフイメージ」を高める工夫がいるのです。

これは、私も調べて知ったことです。

各記事のタイトル画像には本ブログのURLを貼っています。興味のある方は、本ブログを覗いてください。

あなたのためになる記事ともっと出会えるかも知れませんよ♪


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セルフイメージとは、潜在意識が、「自分はこのような人間だ」と思い込んでいる自己像”です。

それまでの人生で蓄積された情報や考え方、行動からセルフイメージは形成されていきます。

セルフイメージが高まると、自分の能力に自信を持ち、自身が本来もっている能力を自然と使いこなし向上させていきます。

一方、セルフイメージが低くなると、自分自身の能力を過小評価して物事に限界を設けてしまいます。

そして、潜在意識はセルフイメージ通りの自分であり続けることを第一優先として動き続ける性質があるのです。

なりたい自分になれる最善の方法とは?

「潜在意識が答えを探しに行く」と書きましたが、その答えこそが「セルフイメージ」なのです。

セルフイメージが高ければ高いほど、大きな願望も実現しやすくなります。

まずは、この言葉をしっかり認識してくださいこれこそが全てといっても過言ではありませんから。

では早速、セルフイメージについてお話しましょう。

ナポレオン・ヒル博士は「思考は現実化する」の著書のなかで「人は考えている通りの人間になる」と述べています。

考えているとおりの人間になるんだったら、成功するためにあなたは成功者のように考え、思えばよいという結論になります。

しかし、そんなシンプルな事がなかなか上手くはいきません。なぜなら、自分の経験の中に答えを見つけに行くため、「自分が考えた以上の人になれない」のです。

答えとはつまり、セルフイメージのことでしたよね?

セルフイメージとは、自分自身が自分のことをどう思っているのかについてのイメージのことを言います。

そして、

そのセルフイメージこそが、自分の行動や思考を無意識に決める大きな鍵となります。

セルフイメージは、あなたが自分の経験に基づき、決めた実現可能な「枠」なのです。

だから、経験や体験から得た感情を格納している「枠」より大きな願望や目標は本気で「できる」と思えないのです。

「できたら、いいな~」とまでは思えますが、いまひとつ確信がもてないのもセルフイメージのせいです。

そもそもセルフイメージは、あなたの幼少期からの経験や体験、親からの刷り込みにより形成され、あなたの中に埋め込まれました。

そしてその後、日頃、「やっぱり~は苦手なんだ」とか「やっぱり私は~できなかった」という繰り返しの経験によって強化されたのです。

これがセルフイメージです。

仮にあなたが小さい頃から、「贅沢はよくない、堅実こそ素晴らしい」という教えで育ったとします。

「お前は堅実だからいいね」「必ず誰かが見ているものだからね」「いつか大器晩成するよ」と。この教え自体は素晴らしい事です。但し、こういうことが起こります。

このように言われて育った人は、大器晩成するつまり、いつか人が認めてくれる事をひたすら待つわけです。

人が言う言葉に一喜一憂し、他人による評価次第で気持ちが左右されます。

そして「人の目」「人の評価」にフォーカスして、自分の人生なのに、自分で選ぶことをやめるわけです。

わかりますか?

ですから、セルフイメージが低いのに、無理やりポジティブ思考を自らに強要しても、苦しいだけでなかなか上手くいかないということになる訳です。成功本には思ったことが現実になるから、

とにかく目標を高くもち、いつも声に出して読み、目に付くところに貼っておく事!と書いてあります。

さらに、感情を伴わせて「~した」というように過去形にし、既に達成したイメージを持つ事がとても大切だといっています。

なぜなら、潜在意識は「過去も未来」も「妄想も現実」も認識しないからです。

ですが、「私は成功した」「私は成功する価値がある」と無理やり思おうとしても、自分の経験に基づくセルフイメージを変えない限り、絶対あなたに根付かないのです。

「私は成功した」といったすぐそこで、成功していない事を自分自身がよく知っているので「いやいや、成功なんてしてないし…」という声が、或いは思いが頭の中を駆け巡ります。

例えば、「私は年収1000万円稼ぐぞ」と目標を立てたとしても、

「そんなに簡単に変わるなら皆苦労しない」「世の中そんなに甘くないことを知っている」「絶対無理!」 などなど。という声がするはずです。

つまり、セルフイメージを変えずに目標を設定しても、あるいは毎日成功イメージを唱えても、あまり意味がないということです。

「絶対成功する!」と思っている直ぐそこで、「どうせ無理だろうけど」という考えがあなたを支配しているからです。

あなたの今までの経験や知識を基にした常識や理性があなたをそう思わせているのです。

ですから、そのセルフイメージを変える、高める必要があるのです。必要があるというより、高めないと意味がないのです。

成功をおさめた人の多くは、セルフイメージを高める事を必ずしています。

なぜなら、お金が入ってきたら「いつか失敗するんじゃないかな?」なんて思った瞬間、潜在意識がそれを認識し、現実にしようとするのを知っているからです。

潜在意識は未来へレールをひきます。それが成功へのレールなのか、失敗へのレールなのかは、あなたのセルフイメージ次第なのです。

潜在意識は、あなたの感情とおりに実現しようとします。もう一度言います。

あなたの感情通りに実現しようとします。その感情がよいものであっても、悪いものであっても、潜在意識には関係ありません。

つまり、あなたが「無理」というセルフイメージを持っていたとして、そのように思ったその時点で、「絶対無理な未来を作ろう」と頑張るわけです。

潜在意識は、妄想も現実も、過去も未来も認識しないということを理解し、あなたの感情通りに実現しようとするということを覚えておいてください。

まずは、あなたがどんなセルフイメージを持っているのかを知る必要があります。知らないと改善もできませんし、当然高める事もできませんから。

しつこく言いますが、必ずセルフイメージを高めてから次のステージに進むよう気をつけてください。

何故なら、先ほどいったように、仮にセルフイメージを高めずして思いがけず成功したとしましょう。

あなたの中の「大丈夫かな?」という“悪魔のささやき”があなたを元に戻そうとするからです。

潜在意識のリバウンドはひどいものです。ですから、セルフイメージを高める事こそが最重要課題なのです。


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いつも当ブログをご覧頂き、どうも有難うございます。心の花嫁学校・マリアージュスクールの斎藤芳乃です。

今回は、より心の深い部分を改善するための「自己承認することで、幸せの許可を出す」=自分で自分にかけている制限を外す方法についてお伝えしていきたいと思います。



自尊心を持てば、幸せに許可が出る!
日常生活で幸せを自動的に引き寄せる女性になるための法則


私たちは実は幸せになりたいと願いながらも、一方で、「どうせ私なんて幸せになれない」と制限をかけていることがとても多いんですね。

幸せになれないという心の制限は、自分を否定する自信のなさだけではなく、「私は幸せにふさわしい女性ではない」という「自分から幸せに対して身を引く」という制限でもあるからです。

例えば、「他の女性とくらべて、私は綺麗ではないし、年齢もいっているから…」ということを無意識に考えてしまっている場合、それを直接的に否定する人がいなかったとしても、「私は幸せにはふさわしくない」と自分で決めて、潜在意識のレベルで幸せを遠ざけるということをしてしまうのです。



自分を大切にしていないから自分に自信を持てない!

自分の良いところを見たり、自分の素晴らしいところを見もしないで、他人から否定されたところばかりを見て、自分を他者目線で裁いているからこそ、「どう せ私なんて」と思い、それが潜在意識のレベルで「私は幸せにふさわしい女性ではない」という
思い込みに結びついているのです。

これらはすべて、「他人の意見」とは関係なく、「自分がダメ出しをしている」というところにポイントがあります。

他人がいくら自分を肯定してくれたとしても、ホメてくれたとしても、「でもどうせそんなこと…」というように、自分を差し引いてマイナス査定することで、自分から「幸せになれない女」を演じてしまうようになるんですね。

この場合、現実を見なくなり、さらに思い込みの世界に入り込み、「本当の自分の価値を見ない」ということを積極的にするようになり、さらに「自分には価値がない」ということを考え続けてしまうのです。



こうした場合は、実は自分をホメたり、わざわざ価値を見いだすことから始めるのではなく、自分のことを「マイナス査定せずに承認する」ということがファーストステップになっていきます。

他人目線で見て素晴らしい自分になろうとするのではなく、

「他人からどう思われたとしても、私はとてもよく頑張っているよね!」

「他人がどういう基準を持っていたとしても、私を評価しなかったとしても、それでも私は努力したり誠実な私を知っているよね!」というように、あなたがあなたを「承認する=認めてあげる」という自己承認が必要になります。



自分自身に対する安心感を!

自己承認というのは、自分を頑張って高めてホメるということとは違います。

自己承認はただ、「自分が持っているものやしてきたことをありのままに認める」ということです。

つまり、他者の評価ではなく、「ありのままに自分のことを認めてあげる」という行為なんですね。

私は確かに、持っていないこともできないこともあるけれども、こういう良いところも持っている。

私は確かに、あの人みたいに優れていないし、この分野での才能がなかったとしても、それとは別の優しさや誠実な面を持っている。

このように、人と比べて素晴らしい自分になる人から評価される素晴らしい自分になるということではなく、自分で自分のことを認めたり、肯定することができると、人は「自分自身に対する安心感」を持てるようになります。

これが、「自分という存在をありのままに大切にする=自分の存在に自尊心を持つということなんですね。



常に、他者の目線から見て、自分の持っていることまで否定していたとしたら、いつまでも自分を「他人との比較で苦しめる」という虐待を続けることになります。

けれども、他人の目線ではなく、ありのままに懸命に生きている自分をあなた自身が認めることが出来たとしたら、
あなたの存在を無条件にとても慈しみ、大切にすることができるようになるんですね。

必ずしも、他人の目から見て、あなたが素晴らしい人である必要はありません。

それよりも、あなたというかけがえのない存在が精一杯生きているということをありのままに認めてあげられたとしたら、

「あなたという世界にたったひとつの命」のことも大切にしてあげることができるのです。

こうして、自分を大切に慈しみ、「私って本当は大事な、とても頑張っている存在だったんだな」と心から自分を抱き締められたとき…「他人からの目線で推し量る自分」や、「他者の評価にこだわり、自分をマイナス査定する自分」から離れられたとき、

「私は本当は頑張っていて、幸せになっていい人間だったんだ」というように、あなたという存在の本当の価値を受け容れることができるのです。



あなたは普段、どんな目線で自分のことを見ていますか?

自分で社会の基準を取り入れ、わざわざ自分に対してダメ出しをして、「私なんてダメな人間だ」という自己洗脳を繰り返していませんか?そして、どんな基準を用いて、あなた自身のことをマイナス査定しているでしょうか?

太っているという基準ですか?

それとも年齢ですか?

それとも、容姿のことでしょうか?

それとも仕事の能力ですか?


あなたが「社会的な基準や他の人との比較」を使って自分を否定し、ダメ出しをしていることに気づけば気づくほど、あなたが自分にかけている「私はダメだから幸せになってはいけない」という制限を外すことが出来ます。

自分の価値を高めるとは、決して「素晴らしい自分になる」ということではありません。

それよりも「あえて自分に対してダメ出しをせず、自分のことを認めてあげる」だけで、結果的にあなたの価値を高める行為になるのです。



人はマイナス査定をすることを好みます。それがまるで美徳のように、ずっと自分を否定し続ける人もいます。

けれども、もうその癖があること自体が、あなたの人生を不幸にしていることに気づいてあげてくださいね。

あなたが他者の目線を取り入れることをやめる=自分を否定することをやめるだけで、それが自然に幸せへの許可に変わっていくことでしょう。


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2017
07.29

自灯明 (じとうみょう)

2016/3/18更新記事


「心のよりどころ」をテーマとして禅宗の名言集を読んでいたところ、「自灯明(じとうみょう)」という言葉に出会いました。

『自灯明』

自ら灯した明かりを頼りに自分の人生を歩いてゆく。その潔さにとても惹かれます。

この言葉を見ていると、「自分の人生なんだから、やっぱ、そうあるべきだよなぁ…」とすごく納得できる気がします。

『自灯明』

・人との関わりに嫌気がさした時、
・思うようにモノゴトが進まない時、
・自分に自信がなくなった時、
・自分のこれからが不安になった時、
・自分の老いの進行を痛切に感じた時、


そんな自分の心が弱った時に、この明かりさえあれば、再び前向きに進んでいけそうな気がします。

そしていつの日か、自分が足腰が立たないよわっちい爺さんになり果てた時にでも、一人、介護施設のベットの上で穏やかな最期を迎えられそうな気がします。

『自灯明』

この教え、忘れまじ!

良い言葉に出会えました。これが本日のブログテーマです。

各記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っています。興味のある方は是非、本サイトの他の記事もお読み下さい。

きっとあなたにとってお役に立つ記事とたくさん出会えると思いますよ♪


▲http://ins8.net/diary/event

『自灯明』

自分の光を「よりどころ」とするということです。

どこかの光を奪ってきたり、誰かの光を持ってきて、自分を照らそうとするのではなく、自分自身の光を遣う・・・。

これは、自立するとか、他者の力を借りないとか、そういう話ではありません。

自分とつながっていない間は、他とつながることもない。

そして、そもそも自分とつながっていない瞬間などはじめからない。

どこかから持ってくる必要もない、おこそうとする必要もない、

自灯の明

人は、自灯明に氣づいたとき、

世界と自分との間、
他者と自分との間、
自分の肉体と意識の間、
時間を感じている自分、


すべての内に、自分自身を発見し、自分の在り方を選択しはじめるのかもしれません。


▲http://www.jyofukuji.com

「自灯明・法灯明」は、釈尊が入滅される前に、弟子に示された最後の教えだといわれています。

「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」ということです。

釈尊の死が間近であったときに、「師が亡くなったら何に頼ればよいのか」と嘆く弟子のアーナンダに対して諭された言葉です。

弟子のアーナンダにとって、常に寄り添い仕えた釈尊は、教えの導きの師であり心から頼りとする偉大なる師でした。

その師が亡くなってしまったならば、「そのあと自分は誰から教えを受け、どうやって生きていったらよいのか」と、彼は途方に暮れてしまった訳です。

そんなアーナンダの問いに答えて、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ」と釈尊は説かれました。

ここで「法灯明」ではなく「自灯明」が先に来ているのは、お釈尊自らが説いた法ばかりを頼らないで、まず「自分自身を拠り所にしなさい」ということ。

「法」を頼りにすることは、外部の決まりごとに従えということですが、

ただ、法に従うことにのみ忠実になってしまって、法の奴隷になってしまうことの無いように「己こそ己のよるべ」ということです。

「仏陀感興のことば」には

この世では自己こそ自分の主である。

他人がどうして〈自分の〉主であろうか。

賢者は自分の身を調えて自分の主となる。

賢者は自分の身を調えて自分の目的を達成する。

賢者は自分の身を調えて自分の徳目を達成する。

賢者は自分の身を調えて自分の名声を得る。

賢者は自分の身を調えて自分の名誉を得る。

賢者は自分の身を調えて自分のいろいろの幸せを得る。

賢者は自分の身を調えて自分の永く天の世界にあって楽しむ。

賢者は自分の身を調えて自分の明らかな智慧を獲得する

賢者は自分の身を調えて自分の親族の中にあって輝く。

賢者は自分の身を調えて自分の悩みのうちにあって悩まない。

賢者は自分の身を調えて自分のいかなる束縛も断ち切る。

賢者は自分の身を調えて自分のすべての悪い領域 を捨てる。

賢者は自分の身を調えて自分のすべての苦しみからのがれる。


「自己以外の何ものにも頼ってはならない」ということの真意は、「自己の内奥に潜む仏性を認識し、そしてその自我本性である仏性と、ダルマ(真理・理法)という自己の内なる仏性と同質の‘絶対真理’のみを頼りとせよ」ということなのです。


▲http://yamayoshi.hatenablog.com



小池龍之介さんの著書
「ありのままの自分に気づく」を読みました。

この本は、他者からの「承認」 に一喜一憂せず、善でも悪でもなければ何者でもない「ただの自分」、“ありのまま”の自分を受容しようという内容です。

本書の内容を鑑みると、他の「自己肯定」の記事とはちょっと方向性の違う内容になっているかもしれませんが、感想と合わせてまとめていこうと思います。

自己承認は成り立たない

本書は4章構成になっています。

その第1章「承認について」の序盤で、住職である著者は、「自己承認は成り立たない」と断言しています。それはなぜか。

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老子や荘子の老荘思想の中には、自分が立派になったことを口で言うとか、自分がエコな生活をしていて、自然な生活をしているということを口に出して言いたがる時点で、それはもう自然ではないという思想があります。

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自分で自分について、「自分はこれだけいいことをしている」とか、「これだけ優れている」などと口にしたところで、それには信憑性があるのだろうかということです。

借金をする際、自分が自分の保証人になることができるのだろうか、それは明らかにできないですよね。

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「自分が自分を承認する」ということは説得力を持たず、それは成り立たず、自分が自分を支えることはできない。

まさにそれゆえに、他者の支えが必要になってしまうということが言えるのだと思います。

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いくら自分を承認しようとしても、「それは自分でそう思い込んでいるだけじゃないの?」と言われてしまえば、説得力を持たなくなってしまう。

それが自然だ、本来の自分だ、と言っても、言い聞かせているようで、逆に不自然に映ってしまう。

自らを承認することは難しく、ゆえに他者からの承認を必要とするが、それでも絶対的な承認をもたらすことはできないと、著者は書いています。

人が誰かを褒めるときや、好意を持つとき、その対象となるのは、その人の一部分でしかない。

イケメンだとか、髪がきれいだとかいった外的要因はもちろん、

気立てがいい、一緒にいると楽しいといった、性格的な面もそうだ。

しかし、それらは不変のものではない。

この世は無常であり、容姿は年を経て変化するし、いついかなるときも「良い人」なんてのは存在しない。

場面場面で見れば、良いこともするし、悪いこともする。

無条件の愛などなく、何らかの条件なしには、人は人を承認できない。

そのため、ある人のある要素、パーツを好きになったとしても、それはその人そのものを承認することとイコールではない。

「承認」は不確かなものであり、それに依拠しすぎることによって、孤独感や渇愛が増していくこととなる。

……なんだか、夢も希望もないように感じますね。

孤独と渇愛

じゃあどうすりゃいいんじゃい!と考えたとき、「ただ無条件に受け止めなさい」と説明しているのが次の章です。

何々を満たしたから受け止めるのではなく、ただ、受け止めるだけ

イライラしているときは、「そっかー、イライラしてるんだねー」と気づいてあげる。

やる気がでないときは、カラ元気を出さずに、「やる気が出ないんだー、ふーん」と認めてあげる。

そのような無条件の承認は、自分にしかできないものだ。

他者からの承認を得ようとすれば、「◯◯だから」という条件が必要になってくるし、その条件も移ろいやすい。

自分で自分を、「うん、そうだね!」とだけ承認してあげることで、「精神的自給率」を上げることを著者は薦めています。

また、「渇愛について」の章では、人は自分という色メガネを通してしか世界を見ることができず、ゆえに人間はみんな自己中だ!と説明しています。

自分を褒めてくれる人は好き、批判してくる人は嫌い、それ以外の関わりのない何十億の人間はどうでもいい。

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対象をありのままに受けとらずに、「良い」「悪い」「どうでもいい」という主観的な歪みを加えるので、世界があるがままには見えない。

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「私にとって」というメガネを取ってしまうと、好ましい存在だけでなく、嫌な存在も実在しない。

「好ましい」とか「嫌」というのは、ありのままの世界には存在しない、脳内でつくられる妄想なのです。

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そんな「私にとって」しか見えない感情で生きている僕らは、日頃、「良い」や「悪い」の感情と同居しながら生活しているが、

たとえ良いことがあって満足したとしても、すぐにまた「不満足」の状態に戻ってしまう。だから苦しいと書いています。

「私には理想のパートナーが欠けている」と考え、それを見つけたとしても、いつの間にかそれが当たり前になり、他の人を求めてしまう。

「仕事で成功したい」と考え、一生懸命働き、周囲から賞賛されたとしても、

その刺激に慣れてしまい、他の刺激を求めるようになってしまう。

ありのままを受容し諦める

いやいやいや、そんなこと言われたら、もうどうしようもないじゃないっすか!と叫びたくなりますが、本当にどうしようもないらしいです。

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圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。

良い意味で諦めてゆくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。

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常に中立的な立ち位置に自分を据えて、「良い」も「悪い」も、「こうなりたい」も「ああするべき」も、ぜーんぶ、その感情があることに気づき、受け止め、見届けるだけ。

+++++++++

感情とは、すこぶる無常なものであり、どのみち変化してゆくもの。

「この感情も、やがては変化する。一時的なもの、無常なもの」という思いで、執着せず、ただ変化を眺めてみる。

+++++++++++


つまり、究極の自己肯定とは、今、そこにある自分を肯定も否定もせず、ただ“ありのまま”に受け入れること。

「自己『肯定』を『肯定』しない」と言うと、矛盾しているようにも見えます。

けれど、「肯定」の裏には「否定」があると考えれば、それらの判断基準から解き放たれ、単に「そこに在るもの」としてだけ自分を認めることは、「肯定」と言えるものだと思う。

ただ、この“ありのまま”という視点も含めた本書の内容について、辛い時、苦しい時の「考え方」の処方箋としては賛成できるけれど、それを常に実践しようという気にはなれませんでした。

何に対しても中立的。

好きも嫌いも、ただ「そういうもの」として受け止めるだけ。周囲にも自分にも期待せず、ただただ、自然の一部として生きていくのみ。

それは、仏道に入り、苦楽から解き放たれて悟りを得ることを前提とすれば、正しい道なんでしょう。

けれど、俗世の社会で生きる僕らにとっては、そんな生活に「生」を感じるようには思えない。

……俗に染まりきった僕だから、こう考えてしまうのかな?

ひとつの視点として、方法論としてならば、非常に為になるものだとは感じました。

結局のところ、

自分は自分の視点でしか物事を見ることはできず、「客観的に見ると」なんて言葉は本来使えないもの。

けれど、そこで「自分」を遠くへぶっ飛ばすことを試み、できるだけ「中立」的な視点を考えようとするモノの見方、他者とのコミュニケーションに疲れた時の受け流し方、諦め方としては、多くの人にとって有意義な思考法だと思います。

このように考えられる人が、いったいどれだけいるんだろうと考えて、軽く絶望した。

無理だべ。

そんな僕らが「自己肯定感」を得ようとするのなら、本書はひとつの視点をもたらす手助けとなるはずです。

自分を知り、認め、肯定するには、「念(きづき)」を得る必要がある。

そのための方法論も、軽妙ながら優しい語り口で論じられております。

新書としては結構なボリュームのある作品(303ページ)ですが、

仏教の経典や哲学書からの引用も多く、良いテンポで読むことができ、気づきの多い内容でした。


▲http://www.saumondesushi.co

何事も自分事として捉えることが、
人生を味わう第一歩であること。


世の中には不安を煽るような記事などがたくさんあり、

「不安が現実化しないように」一生懸命になって成功しよう・健康でいようなどとたくさんの人が意気込みます。

ですが、それはあくまでも「他人の軸」でしかありません。

「老後これくらいの貯蓄が無いとダメ」
「血圧がこれ以上高いとヤバイ」

これはあくまでも客観的から見たものですね。

もちろん貯蓄がゼロだとか、血圧が180くらいですという過剰なのは抜きにしても、こういった「他人の評価基準」を自分の人生の基準にしてしまうことに、問題は潜んでいるかと思うのです。

例えば人間関係でも、「他人の評価基準」を人生の軸にしてしまうと、

"その人が嬉しいと思ってるかどうか"で自分の人生が決まってしまいます。

友達が喜んだ、だから私も嬉しい。

上司がイラついている。
だから私もイラついている。

他人から見られている自分がどうかで、自分の評価が決まります。

ただ、その他人というのも十人十色です。これ、すっごく、疲れます。

仕事を始めた頃の私は、間違いなくこれでした。

あの人が喜ぶことはこういうことだから、こういう感じに話をもっていこう。

あの人はこういうことをすると嬉しいって言ってくれるなあ。

仕事が重なった日の夜はドッと疲れが。

ある時、(良い意味で)他人に合わせるのは面倒くさーーーい!って振り切れた時から、とても楽になりました。

合わせなくても良いんだ。私には私の生き方や価値観がある。

今までのベクトルとは、逆のベクトルになりましたが、それが良かったようで、良い意味でありのままになれた気がします。

自分に正直になると、自分の価値観が分かります。

私は、何を好み、何を嫌うか。

私は、身体を動かす、という事でも、長く走る事は嫌いです。

泳ぐ事も嫌いです。でも、それが私です。

私は、何に興味を持ち、何に全く興味を示さないか。

私は、人の身体の不思議に興味があります。お菓子作りには全く興味がありません。

そして、何が私となるのか。

自分の軸が決まる事で、相手や周りの物事に動じなくなります。だからこそ、自分自身に正直になる。

自分自身を楽しませ、成長させることが生きる醍醐味であること

私は、今までの人生では、他人からの評価で生きてきました。

他の人にホメられたり、すごいねって言われるのが嬉しくてそれが目的になっていました。

だから、他の人に負けるのが本当に嫌でした。

そしてホメられなくなると、その行動自体にも意味を感じず、それをすることを辞めていきます。

嫌だったというより、怖かった。という表現の方がマッチすると思います。

どういう自分がどうなるかというと、"負けないフィールド"で勝負をして来たんです。

学校のテストも、余裕余裕言いながら、家で結構やってましたしね(笑)

でもこれって、本当に、いつかガタが来るんです。

ガタが来た途端に自暴自棄になり、何もかもが崩れて行くのを感じます。

私は間違いなくそうでしたし、年を重ねれば重ねる程その経験が多くなってきました。

勝負という世界には、上がこれでもかという程いるからです。

そしてそういう時こそ、「組織のせい」をはじめとする、自分以外の環境へと責任転嫁をするわけです。

この時が人生で一番落ち込んでいたと思いますが、その時が無ければ今は決してなかったので、事実は事実として受け容れています。もう今となっては動かせない過去ですから。

で、先述の、面倒くさーーーい!って振り切れた時から、本当に自分の魂が喜ぶことをやろう!って決めたんです。

だから、少しでも自分の中に違和感や自我を感じた場合には、すぐ自分に問います。

本当にそれで良いの?って

全てにおいて半信半疑になったという表現になるのかも知れません。

その問いがあると無いとでは、積み重ねが違ってくるかなと今は感じています。

その問いのお陰で確信を得られたり、逆に方向修正出来たりするわけなので。

昨日の自分より成長する為には、必要な質問だと思います。

自分主体になると、その時から毎日がガラッと変わりますし、何よりも「他人と比べてどうか?」ではなく、「昨日の自分と比べてどうか?」っていう視点に全てが切り替わります。

楽しいですよ、これ。

あ、昨日はこれ出来なかったけど今日出来た!

あ、昨日はこんな感覚無かったけど、分かった!

とか。

すると、一瞬一瞬が学びということに気付くんですね。

そこから感じられることは自分の人生を生きてるという実感であり、楽しい、嬉しい、幸せ…そんな感情だと思います。

外のモノ、つまり、他人、新興宗教、お金、物、故郷などに依存することなく、自分に依存(帰属)する。

人は、帰る場所があると安心します。だから、自分自身に帰る。

目をつぶれば、夢も現実も変わらなく、まぶたの中に存在しています。

それは、誰がなんといおうと、あなたが思い描く、そしてあなたにしか思い描けないひとつの物語。

今まで紡いで来た、変えられないものは、喜んで受け容れる。

生まれた国・土地・先祖・両親・性別・身長・体重・過去全ての事

これから紡いで行く、白紙のものは、自分主体でこれから創って行く努力を。

それを〈身体から〉という一つのきっかけがあっても良いのかな。

そう考えた夜でした。


▲https://happylifestyle.com

幸せになるためには「ありのままの自分」でいることが前提条件です。

本来の自分はそれで十分完璧で、変える必要などありません。

しかし、残念なことに、多くの人が憧れの人になろうと無理をしています。

自分の好きなアイドルに憧れて、自分も同じようになろうと努力をします。

着ている服を真似たり、話し方を真似たりして、自分の憧れに近づこうとします。

私も中学のころ、音楽に没頭していたこともあり、憧れていたミュージシャンの身なりを真似していた時期がありました。

おそらく、話し方やしぐさまで真似しようとしていたはずです。

そんなことをしているうちに、私は本当の自分が分からなくなってしまった経験があります。

同じような経験がある人だと分かってくれると思うのですが、自分が自分以外の人になろうとしても、違和感があるのです。

本当の自分が1とします。自分が求める憧れの人を2とします。

自分が憧れの人に近づこうとしているとき、1から1.2へ近づき、1.2から1.4へと近づきます。

しかし、どうも完璧な2には、なれません。

生まれも育ちも違うため、どんなに努力しても自分の理想の2にはなれないのです。

そのため、中途半端な1.5くらいのところで、止まってしまうのです。「1.5」というのが、中途半端です。

自分でもないし、憧れの人でもない。中途半端な、わけの分からない自分になってしまうのです。

私は、自分が追い求める憧れに近づこうとしても結局無理であるということが分かりました。

結果として残ったのが、中途半端な性格の自分だったのです。もう自分がなんだか分からなくなりました。

自分ではない人に、自分がなろうとしてしまうと、自分が分からなくなってしまうのです。

自分を憧れの人とすり変えようとすることは、本来不可能なことなのです。

しかし、あなたは唯一完璧な存在になれる人がいます。

「あなた」です。あなただけは、完璧です。あなたになろうとして誰かが真似しても、あなたになることはできません。

それでいてあなたは、あなたになることができ、あなたを完璧に演じることができています。

あなたはすでに、「あなた」という完璧を手に入れているのです。

ここに早く気づきましょう。

あなたが、恋い焦がれて好きになるべき人は、誰でもない自分なのです。

唯一、あなたは、あなたにだけは完璧になることができています。

何も自分を変える必要などありません。「ありのままの自分」を好きになればいいのです。

憧れる人になろうとして努力するエネルギーがあるなら、自分を好きになることにエネルギーを使うことです。

自分を好きになれば、あなたは自分を完璧に演じることができますから、まったくの無駄がありません。

すべてが自分らしくて、完璧な個性を出すことができています。

今、私は自分が好きです。

自分という好きな人になることができていますから、自分を無理やり変えることもありません。

このままでいいのです。いつも素直な自分で生きることができています。

私は、人から「素直だね」と言われることがありますが、

自分が自分らしくしているだけですから、素直になることも当然です。

あなたが「一番好きな人は、誰ですか」と聞かれたら「自分です」と答えられるようになればいいのです。

一番は、必ず自分でいることです。2番、3番は恋人や家族でいいのです。

「自己愛の強い人」とも言えますが、自分で自分が好きでなければ、誰を好きになるのですか。

自分が好きでなければ、自分という存在が崩れます。

自分を好きになれない人は、他人も好きになれません。

自分のことが嫌いだと言っている人は、決まって不幸そうな顔になっています。

しかし

「自分のことが好き」だと言っている人は、決まって幸せそうな顔になっています。

あなたの周りにいる人に当てはめてみましょう。テレビの中の人物でもかまいません。

自分のことを嫌いだと言っている人は不幸そうですが、自分のことを好きだと言っている人はとても幸せそうにしているはずです。

好きな人が、自分であるかどうかが大切なのです。

好きな人が自分であれば、完璧な人になりきれるので、困ることはまったくありません。

自分が「ありのままの自分」でいることこそ、一番幸せなことなのです。

自分以外の人になろうとするのはやめることです。「ありのままの自分」を好きになりましょう。

「ありのままの自分」が、一番幸せなあなたなのです。

自分以外の人になるのは、やめましょう!


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2017
07.28

人付き合いに疲れた時におススメの本の紹介!

Category: 幸せの思考法


人付き合いに疲れた時におススメの本の紹介!

私は、人並みに愛想が良いつもりでいます。若いときに、周りの人を見て「愛想が良い人はトクをするなぁ」と感じたからです。

しかし、いまだに人と会ったあとは少し疲れます。テンションをムリに上げて、愛想を振りまきすぎるのかも知れません。

とは言っても、もういまさら、こんな人付き合いのやり方は変えられない気もします。そんな中で、こんな本を読みました。


「無愛想のススメ・人間関係が劇的に改善する唯一の方法」

なんとなく面白そうだったので買って読んだのですが、これがなかなか深いことが書いてありました。

本日のブログでは、この本を読んだ方々のブログ記事を集めてみました。人付き合いがちょっと苦手な方にもおススメの本です。

各記事のタイトル画像に本ブログのURLを貼っています。クリックして本ブログも覗いてみてください。

あなたのお役に立つたくさんの記事に出会うかも知れませんよ♪




▲TABI LABO

人間関係が今よりずっとラクになる「無愛想」のススメ

いつも誰にでもニコニコしていて「愛想の良い人」は、一見すごく人付き合いがうまそうに見えます。

でも、その笑顔のウラには「人に嫌われたくない」という恐怖や不安で満たされている場合が多いものです。

そういう人は「無愛想」を身につけることで、人生を一変させることができるかもしれません。

池田潤氏の著書『無愛想のススメ 人間関係が劇的に改善する唯一の方法』を参考に、その効果について見てみよう。

「無愛想になる」とは自分を愛するということ

「愛想の良い人」は基本的に「相手のこと」を考えている。

小さい頃から「他人のことを考えなさい」と言われてきたし、学校でも空気を読むことが大事とされたからだ。

しかし、「愛想の良い人」たちの多くが、こんな悩みを抱えている。

「自分に自信が持てない」
「やりたいことがわからない」
「恋愛がうまくいかない」
「仕事で思うような成果が出せない」


表面上ではこの社会をうまく生きているように見えるが、じつは「いい人」ほど悩んでいるのである。

「愛想の良い人」は本当に他人のことを考えているのだろうか?いや、そうではない。

彼らはただ「他人に嫌われないために愛想を良くしているだけ」なのだ。

いつも他人基準で行動をしているため、

・自分のやりたいことができない
・言いたいことが言えない
・我慢してしまう
・怒れない
・オープンになれない


といった悩みが出てくる。ここでいう「無愛想になる」とは、他人がどう思うかではなく、自分がどうしたいのかを大事にするということだ。

無愛想の「在り方」って?

もちろん、実際に無愛想な表情をするという意味でもあるが、大切なのは無愛想で「在る」ことだ。それは、

・自分の好きなように生きる
・自分基準で生きる
・嫌なものには嫌と言う
・他人からの承認に執着しない
・自分を愛し他人を愛する

ということだ。

無愛想であるという「やり方」と「在り方」両方を身につけることで人生は間違いなく変わる。

人に嫌われないためにはどうすれば良いか。それはいくら愛想を良くしたり、嫌われないために努力をしても無駄なのだ。

なぜか?それは、根本的な自己認識が変わっていないからだ。

「自分は普通にしていたら嫌われる」という自己認識を持っていること自体が、うまくいかない最大の原因なのだ。

世の中の情報の多くは、人のコンプレックスを刺激するものだ。

そしてそのコンプレックスは外の何かで埋まるものではなく、無愛想という「やり方」と「在り方」を身につけ、自己認識を変えることで埋まるものなのだ。

一ヶ月「お人好し」引退宣言

メンタルジムに参加しているある男性が、試しに一ヶ月間ほど「お人好しを演じる」のを辞めてみたところ、周りの自分への扱いに劇的な変化があった。

職場で尊重されるようになり、忙しいときには相手のほうから進んで声をかけてきて、仕事を手伝ってくれるようになったのだ。

これまで周りに気を使い、必死に愛想笑いをして周りのために自分を下げて努力しても、まったく報われることはなかったというのに。

そういった努力をすべて捨て、無理な愛想笑いをやめ、お人好しをやめ、自分を大切にし、周りに気に入ってもらおうとせず、気に入られなくても構わないと思うこと。

周りに大切に扱ってもらいたいなら、まずは自分が自分を大切に扱うことが大事なのだ。

人から軽く扱われるのは、自分が自分を軽く扱っているからだ。

無愛想になることで手に入るもの

無愛想になってみると、面白いことが起こる。試しに、次に挙げることをやってみてほしい。

・軽く扱われたときは、不機嫌になる。
・返信する気がしないメッセージは遠慮なく既読スルーする。
・相手の話が面白くないときは笑わない。
・相手のご機嫌をとるようなことは言わない。
・相手の期待に応えない。
・行きたくないところには行かない。
・「相手に悪いから」という理由でやっていたことをやめる。
・じつは言いたかったことを言う。
・遠慮なく、やりたかったことをやる。
・他人から否定されても、それでもやる。
・媚びない、ペコペコしない、下手に出ない。


これらは「やり方」だが、大事なのはこれらが「内面に変化を起こすアプローチ」であると知っておくことだ。

これをやっているうちに次第に

「自分は自分を大切にできる人間だ」
「普通にしていていいんだ」
「自分の思ったことをやっていいんだ」


という内面感覚が生まれるようになる。

現実に変化を起こすためには、自分の内面の自己認識を変えなくてはいけない。内面の変化を起こすために現実的な行動を変化させていくのだ。




▲木村成実OfficialWEBSITE

「無愛想」と「愛想」って究極は同じってことに気付かされた件

いつもお世話になっている池田潤さんの新刊『無愛想のススメ』を読み終えた。

派手なピンクのカバーが素敵で、ブックカバーもつけずにあちこちで堂々とこの本を出していたら、大抵の人が目をこちらに奪われているっぽい。

今日も、だんなさんとブックカフェに行き、この本を二人して開いていたら、店員さんに

「その本何ですか??すっごく素敵な本ですね!」

って声をかけられ、図らずもこの本を店員さんにリコメンドすることになった。笑

「無愛想のススメ」ってどんな本?

さてさて、この本で主に言われていることは、

「愛想笑いをやめて、無愛想になることで自分を大切にする」ということ。

「愛想がいい」というのは、今、あまりいい意味で捉えられていないように思う。「愛想笑い」なんて典型的。

「愛想」という言葉は他人の機嫌を取るための言葉や振る舞いという言葉として、世間に認識されているように思う。

私も、32年間の人生において、愛想笑いをして生きてきた時間がかなり長かった。

小学2年生を皮切りに、学生時代長くイジメに苦しんだことが大きい原因だと思う。

親・友達・先生に「どうやったら好かれるか」ということを、常に考えていた。

その癖は、年齢を重ねて、大人になっても、私の中に根付いていた。

だから、本の中での著者の体験に心を重ねて泣きそうになったり、共感したりすることがかなり多くて、読み進めるのが大変だったくらい。

「そうだよね〜〜」って思う箇所はたくさんあったけれど、特にお気に入りなのはこの部分。


魅力的であるということは、無愛想に己を活かし続けるということ。

他人がどうこうではなく自分に与えられたものを活かそうとする姿勢それ自体が人を惹きつけるのだ。

他人に愛想を振りまいて卑屈になるのではなく、無愛想になって自分を活かし続けよう。



新しい何かを生み出せる人というのは、人々のニーズを満たそうとする人ではない。

人々の心に新しいニーズを生み出す人だ。

最初は欲しいと思っていなかったけれど、その人の発信する情報や世界観、生き様に触れているうちに、欲しいと思うようになっている。

物もサービスも溢れた今の時代、そういう人が活躍する時代になるのではないかと思う。


他人に目を向けたところで、自分はいつまで経っても魅力的にはなれない。

他人を満たすことで時代を作るのではなく、自分の生き方を貫くことで時代を作る。

私も、そういう生き方をしたいと願っているから、改めてハッとさせられた。

究極、「無愛想」と「愛想」は一緒である

そうは言っても、自分のことを少し振り返ってみると、昔より随分無愛想になれている部分もあるなぁとも感じてる。

私のことを批判してくるだけで何も解決しようとしない人たちがいる集まりの中で愛想を振りまいてい続けていたけれど、そこを辞めた。

自分の生き方、価値観にそぐわないと思って、会社も辞めた。

いい子でいよう、長女の責任を果たそうと愛想良くしていた両親や妹との同居も解消した。

もちろん、正直に言うと、これまでいた環境を「脱する」というのは、私にとって怖かった。

それでも、一旦、周りに対して「どう思われてもいいや」って無愛想になれたからこそ、私は今の自分を手に入れることができた。

そんな自分のプロセスを振り返ってみると、「無愛想」と「愛想」は、究極的には一緒だなぁっていうことに気づいた。

「愛想」って、冒頭にも書いたけれど、「他人の機嫌を取る」っていう意味で使われがち。

けれど、「愛想」という言葉を調べてみると、「人に対する好意・信頼感」という意味もある。

要は、周りに無愛想になり、自分の気持ちを大切にすることは、自分に愛想良くしてあげること。

さらに言うと、自分に愛想良くしたら、一旦自分自身にも無愛想になってみること。

なぜなら、ずっと「他人の機嫌を取ってきた自分」というのは、無意識の領域で他人からの影響を受けたままの状態だから。

この本に書いてある、


過去や未来の扉には、無愛想でいよう。

大事なのは、今だ。


今この瞬間できることは何か?に意識を向けて、できること、やりたいことをする。それだけでいい。



自分に「そこ重要?」と突っ込もう。


というフレーズは、まさに「自分自身」に無愛想になることを書いているんじゃないかなと思う。

他人に無愛想になったつもりでも、「自分自身をストップさせる要素」が自分自身の中にあるということに、気づく過程だから。

私自身、周りに無愛想になり、自分がいる環境を抜け出す時に、そんな自分が「逃げている」ように思えて仕方なかった。

けれど、それって私自身が長年培ってきた私自身の中にある不安や恐怖だったりする。

そんな自分の不安や恐怖そのものにも「無愛想」でいる。

この「愛想笑い」→「無愛想」→「愛想」→「無愛想」…っていうプロセスをそのものが、自分を良くしていく秘訣なんだと、私は思う。

「無愛想のススメ」、奥深し!

この本が書いていることは、

「愛想笑いをやめて、無愛想でいよう」

というアプローチではあるけれど、真実はそんなに単純じゃないと私は思ってる。

他人の機嫌を取る「愛想」をやめて、一旦他人に対して「無愛想」になってみる。

そうすることで、自分を信頼し、愛してあげるという「愛想」を大切にしてあげる。

その過程で、時には自分の内側で自分を妨げる要素に「無愛想」になってみる。

その結果、自分が良くなっていき、自分が本当に大切に思える人に好意を持ち、信頼する「真の愛想」の循環が生まれる。

だから、「愛想と無愛想」、「自分と他人」は違うようだけど、最終的には全部繋がっている。

めっちゃ奥深い♡

愛想笑いをする人って、本当は人が大好きで、人と繋がりたいって思ってるからこそ、愛想笑いするんだと思う。

その場その場で他人の機嫌を取ることは、手っ取り早い手段だよね。

けれど、それでは人間関係を良くしていくことはできない。対処療法だから。

だからこそ、一見遠回りに見える「無愛想」というアプローチこそ、巡り巡って最終的には人間関係が良くなる。

それだけ深く自分自身を見つめる過程を踏んでいるわけだから、原因治療ができてるんだよね。

潤くんも、ブログなどでこの本について

『大事なのは、「ずっと無愛想でいる」っていうことじゃない。

「無愛想でいられる自分」という選択肢を持てるかどうか、ということ。』

って書いてあるけれど、本当にその通りだと思う。

私自身、まだまだ外側に対して無愛想になりきれてない部分もあったりする。

そんな時は無愛想になってみる。

1人でいて、なんかうまくいかないマインドになっているなぁと思う時もある。

そんな時は自分のネガティブな部分にも無愛想になってみる。

これくらいの使い方でいい。

間違った「無愛想」にならないで!

だから、この本を読んで勘違いしないでほしい。決して、「冷たく、無愛想な表情」であることを勧めているわけではない。

余計な愛想笑いはやめて、「真の愛想」からの笑顔に変えていくために。そのために「無愛想」の循環を起こそう、ということ。

私は、この本をそういうメッセージで受け取った。

今の世の中、きっと、無意識に愛想笑いをしている人は多いと思う。

私の銀行員時代なんて、振り返ってみたら愛想笑いの人ばっかりだったし。

だから、この本に救われる人は本当にたくさんいると信じてる。

まだ読んでない人は、ぜひ読んでみてね。




▲星野幸三オフィシャルブログ.

【無愛想のススメ】愛想が良い人は恐れている。

「良い人どまり」の人が必要なのは「無愛想」になること。

「無愛想のススメ」という本を読んで感じたのは、「良い人」だけでモテない人は、相手に合わせようとしすぎているんじゃないかということ。

相手の顔色をみて、愛想よくしている。だから、「良い人」で終わってしまう。。。
  
そんな人ほど「無愛想力」を身につけたら、「自分軸」で生きられる。そう、思います。
 
見開きのところに書かれていた一言が突き刺さりました。

「愛想が良い人は、恐れている。」ということで、「無愛想のススメ 池田潤著」を読んだのでシェアです。

まず、僕自身は一般的には「愛想が良い」という風に分類されると思います。

というのも、第一印象で次のことをよく言われるからです。

「さわやか」
「なんでもできそう」
「頭よさそう」

ただ、中には「腹黒そう」という人もいます。笑

初対面で、「あなた腹黒いよね」と。笑

(僕のことがそう見えるってことは、そう言ってくる人もきっと腹黒いんだと思って「うんうん」と流しています。笑)

で、僕は自分の「さわやかさ」を自覚してますし、「腹黒い」部分があるのも知っています。

ただ、数年前と今とで大きく違うのは、その全てを受け入れて、表に出しているということ。

で、その上でどう思われてもいいと思っています。全部が僕自身なんですよね。

他人から見たら、「さわやか」に見える人もいるし、「腹黒い」風に見える人もいます。

そうやって、「他人軸」で判断してしまう人のことをこの本では「愛想の良い人」と言っているような気がします。

(僕の言葉で話しているので多少ニュアンスは違うかもしれません。)

じゃぁ、「無愛想な人」といのはどういう人か?

一言で言うと、「自分軸」で生きている人です。

見開きにも書いてありますが、「愛想の良い人は恐れている。」この一言が本書を言い表しているなぁと感じました。

無愛想の人は、基準が自分自身にあるから恐れが少ないんですよね。

自分軸で物事を判断し、行動に移せるから、他人を気にしないで(無愛想をつらぬいて)いられる。

この本は「無愛想」というキーワードをもとに、いかに「自分軸」で生きるかを説いた本だと感じました。

著者がいじめられたたった一つの理由

そして、この本で印象に残っている部分が、著者がいじめられていた過去があったとのこと。

そして、そのいじめられていた理由が「なるほど・・・」と、感じたのでシェアしますね。

これは「いじめられる」人だけではなく、

・よくからわかれる人
・よく怒られる人
・よくバカにされる人


にも共通することなんじゃないかと思います。

著者はいじめられている最中は、「愛想よく」していたらしいんです。いつも強気で笑顔だった著者。

なのでいじめっこは、いじめられる著者の気持ちがわからなかった・・。だから、著者はいじめられていたと。

そして、ある時いじめっこの前で、著者がいじめられた時の気持ちを嗚咽しながら話したそうです。

強くいることをやめ、愛想よくいることをやめ、笑顔でいることをやめたんです。

その時の気持ちを素直にいじめっこに言ったそうです。


いじめていた子は、それまでの私の気持ちなどわからなかったのだろう。

なぜなら、私はいつも笑顔だったからだ。しかし、本当は傷ついていた。

彼らは心の底から悲しみを表現している姿を見て、自分たちがやってきたことの重みに初めて気づいたのだと思う。

そのときから、いじめられることは一切なくなった。(本文より、引用)


この文が非常に印象的でした。「愛想よく」いることで、相手に気持ちが伝わらない。そのため、いじめられていた・・・と。

いかに、自分の気持ちに素直にいることが大切か、著者自身の体験を持って話してくれているようでした。

自分自身、「愛想よく」してしまってはいないか。

この本を読みながら、自分自身の生活で相手に合わせすぎている部分がないか考えるようになりました。

「それは本当に心の底から自分が望むことなのか?」ということを、常に自問して次の行動に移すように心がけていく。そう決意させる本です。

「無愛想」をすることで、本来自分がやりたかったこと、自分が好きで力を発揮できることがより鮮明になる。そう感じました。

他にも印象に残っている部分はありますが、詳しくは本を買って読んでくださいね。^^



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2017
07.27

「なんかイイことないかなあ…」という人への処方箋

Category: 幸せの思考法


仕事帰りに街のコンビニで、エロ雑誌を立ち読みをしていたら、おっさんから声をかけられました。

誰かと思ったら、一緒に定年退職した前の職場の同僚Bさんでした。Bさんも今年62歳。現在は、家でのんびりしているそうです。

気は良いのですが無愛想な奴で、あまり好きではないのですが、家が金持ちなので、ちょくちょく飲みに誘ってくれたので知らないふりも出来ません。

「お前、いい年して、まだエロ本なんか見たいのか?」って要らん世話です(`o´)

「ヒマだったら、一杯つきあえよ」というので、

「ハーイ \(^o^)/!」とついてゆきました(#^.^#)。

相変わらずの無愛想で、不機嫌そうな顔で酒を飲みながら、「ああ、毎日がつまらん!つまらんばい!」「なんか、良かことなかね?」とグチばかり。

メンドくせー奴です。

時間と金があるのに、「なんか良いことないかねえ…」って、まるで他力本願!

一体誰の人生なのかしら?

そんなことで、本日は「なんか良いことないかなぁ…」ってため息ついている方に向けた記事の抜粋です。

それぞれの記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っていますので、是非クリックしてそちらも覗いてみてください。

あなたのお役に立つ記事とたくさん出会えるかもしれませんよ♪



▲「ウートビ」わたしを、アップデートする。

「最近いいことないな」と嘆くあなたへ ハッピーを逃さない8つの方法

「最近いいことないなあ」
「何かおもしろいことはないの?」


…そんな言葉が口ぐせになっていませんか?いいことがないのはじつは自分自身のせいかも。

そこで、「貴方が出逢う異性」サイトの監修者・早田みず紀さんにハッピーを逃さない8つの方法を教わりました。

1)きっかけをつくる

「なんだかつまらない」と思って生活していませんか?

じつはつまらなくしているのは自分自身!

他力本願ではなく、自分から動かなければ運命は動き出しません。

「月がきれい」「花が咲いていた」など、心に何かが響いたらそれをきっかけに動いてみましょう。

2)早朝に散歩する

人は本来、感覚的に運気を把握し、幸運と不幸を判断できるもの。

その感覚を養うために朝の散歩を。朝の空気の中で体が目覚める感覚はいい運気に乗ったときの感覚と似ています。

3)すぐに答えを出してみる

幸運は躊躇しているとすぐに逃げます。

「一瞬のうちに決断して動き出す」という癖をつけることは人生を切り開くのに重要なこと。

洞察力や判断力を磨きましょう。

4)第六感を鍛える

何かを始めるときと、何かを終わらせるときのタイミングを見極めるために、第六感を鍛えめましょう。

頭ではなく体が納得するような「しっくり感」を探すといいでしょう。

5)「一点集中」で考える

どうしても欲しいものは、一点集中で考えるとチャンスを引き寄せられます。

高くて買えない服はバーゲンを待ったり、ほかの店にあるかをリサーチするように、努力を集中させれば手に入る確率は高くなります。

これは恋愛にも仕事にもいえることです。

6)運だめしをしてみる

欲しいものやチャンスをつかむには、「時を待つ」ことが必要です。

懸賞に応募して時の運を待つ練習をしましょう。

胸をはずませて待つ楽しさを知っておきましょう。

7)「やめどき」を知る

ものごとは始めるより、やめるタイミングの方が難しいもの。

やめどきを知るために、小さなできごとでやめどきを逸してみるのも手。

同じような目にあったときに、そのときのむなしさを思い出して「やめどき」を逸しないよう努力できるでしょう。

8)考えすぎない

あなたの持つこだわりがあなたの視野を狭くしているかもしれません。

時の運に乗るには、柔軟な姿勢が大切。「絶対に違う」というこだわりの裏に真実が隠れているかもしれません。

慣れ親しんだ日常を変えるのは勇気が必要ですが、その一歩を踏み出すきっかけづくりとして、上記の8つの方法を試してみてはいかがですか?




▲TABI LABO

「自分の人生を愛している人」が大切にする10の考え方

「人間は、自分が幸福であるということを知らないから不幸なのである」とは ドストエフスキーの言葉。

幸せは、何気ない日常の中にあります。普段気づいていないだけで、アナタの周りにもたくさん存在しているのです。

問題はそれを見つけられるかどうか。

そのためヒントを起業家でありライターのPaul Hudson氏「Elite Daily」の記事で紹介しています。

1)大切なのは他人の意見より「自分の行動」

しあわせな人たちは「誰かに好かれたい」とか「嫌われたらどうしよう」とか、そんなことは考えません。

他人からの関心に興味もなければ、誰かに認めてもらいたい、という欲求もないのが特徴的。

「自分の行動に責任が持てるのは自分だけ」と考える彼らは、誰かに生き方を決めてもらうようなことはしないのです。

2)誰にも強制されない

彼らには「◯◯しなくてはいけない」といった考え方が存在しません。

何かをしたりどこかへ行くのは、やらなくてはいけないことではなく、やりたいからしているだけ。

3)友人とは、お互いに自立した関係

彼らは、友人を必要以上に頼りません。

人は皆、それぞれ違う生き物だということを知っているので、無理に気持ちを押し付けることなどしないのです。

誰かに頼りすぎると、人間関係は崩壊します。友人とは、お互い自立した「大人同士の関係」を保っているもの。

4)お金のためじゃない「自分」のために働く

「来週から始まる仕事は、どんなプロジェクト?」そう訪ねたとき、彼らは自分が何をして、それがどう役立つのかをしっかりと答えることができます。

仕事は、生活のために必要なお金を稼ぐものではなく、楽しいからやるのです。条件や待遇ではなく、そこで何ができるか、どんなものを得られるかを重視しています。

5)場所に固執しないそれは、国すらも…

彼らは住むところに固執しません。ひとつの場所にとどまって退屈な人生を送るのはもったいないことだと考えています。

旅を通じて多くの人に出会い、自分の価値観をアップデートしています。

街や国といった垣根を越えて、地球全体が自分の家であるように考えているのです。

6)自分の哲学やルールは自分で決めている

彼らは「何が良いことで何が悪いことなのか」自分で判断します。

生きる上でのマニュアル本や指南書は必要ありません。

自分のルールを持ち、他人に指摘されるのではなく、その哲学に従って生きるのです。

7)「人生はいつか終わる」と意識している

命あるもの、いつかは最期を迎える…。彼らはそのことを受け入れ、生きるモチベーションにしています。

やみくもに死を恐れたりせず「死はコントロールできないが、自分の人生はコントロールできる」と考えています。

8)与えられるのではなく自分たちでつくっていく

目の前の現実はこれまで積み重ねてきたことの結果であり、どんな現実も自分たち次第でつくり出すことができると信じています。

誰かに与えられるのではなく、自分たちでつくっていくことが彼らの信条。

9)理想だけを追わず地に足がついている

幸せな人は、常に夢や希望、目標を持っています。

彼らにももちろん憧れはありますが、必要以上にとらわれたり、道を見失うようなことはありません。

10)人は変えられないけどその人への接し方は変えられる

他人を変えようとするのは大変なこと。多くのエネルギーが必要になります。

人が変わることができるのは、その人自身が自分で「変わりたい」と思ったときだけ。

ただ、その人とどのように接すれば良いかはあなた自身がコントロールできることなのです。



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2017
07.26

『尊厳死』わが人生の幕引きについて考える

Category: 老後の設計


親の期待叶わず、私が一浪して三流大学を卒業して社会に出たのは23歳の春でした。

その最初の職場で、私に手取り足取り仕事を教えてくれた部門長のTさんは当時40歳でした。

そのTさんが「いよいよヤバいらしいよ」と当時の同僚から連絡が入り、びっくりしてお見舞いに行きました。

病室で目にした恩師Tさんの変わり果てたお姿。

90歳以上でもお元気にお過ごしの方もおられるというのに、今年79歳になるTさんは、ベット上でチューブだらけでした。

奥様にご様子をお聞きしたところ、もうこんな昏睡状態がひと月ちかくも続いているとのこと。

Tさんの若き日の姿が思い出され、すごくやり切れない思いがこみ上げました。

「人はこんな状態になっても生き延びなければならないものなのか?」

「延命治療ってなんだろう?」

「これで生きていると言えるのだろうか?」

いくつものギモンが頭をよぎりました。

2015年における日本の平均寿命は「男性が80.75歳」「女性が86.99歳」

ごく単純に考えれば、今年62歳の私はあと19年以内には死ぬ確率が高いといえます。

とはいえ、自分の死に際の姿が、あんなチューブだらけの姿ではやり切れないです。

お世話になったTさんには、一日も長く生きて頂きたいと願いつつも、自分の人生の最期については、「あんな姿は、妻や子供達には見せたくない」というのが率直な思いです。

最近「尊厳死」っていう言葉をよく目にします。

本日のブログでは、特にシニア世代の方に「将来やってくる自分の死に際」について考えて頂くきっかけになれば良いと思い、「尊厳死」をテーマとしました。

欲張っていろんな記事を集めて転載しています。

いっきに読み終わるのは大変だと思いますので、気が向いた時に、ボチボチ読み進めてください。

各記事のタイトル画像に本サイトのURLを貼っていますので、興味のある方は是非、クリックして本サイトにある関連記事もお読み下さい。


▲ヨミドクター

【現状と課題】“延命至上主義”が高齢者の最期を苦しめる


私たちは、高齢者は過剰な医療や延命措置を受けることなく、穏やかに人生を終えてほしいと願っています。

そう考えるようになったきっかけは、2007年にスウェーデンで認知症の専門病院や施設を見学し、案内してくれたアニカ・タークマン老年科医師から、「スウェーデンでも20年前は、高齢者が終末期に食べなくなると、点滴や経管栄養を行っていました。

でも、今では、食べるだけ飲めるだけで安らかに看取みとります」と言われたことです。

私たちは終末期の高齢者に点滴や経管栄養を行うのは当たり前と思っていたので、日本の医療との違いに驚きました。

点滴や経管栄養などで延命しないので、日本のように何年も寝たきりの高齢者はいません。

無理に食べさせないので、口内の細菌や食べ物が肺に誤って入って起きる「誤嚥ごえん性肺炎」もありません。

私(顕二)は肺の病気を専門としていますが、日本に多い「誤嚥性肺炎」がスウェーデンではほとんどないと聞き、驚きました。

翌年から、欧米豪6か国の高齢者終末期医療の現場を見て回りました。

その結果、日本で行われている終末期の高齢者に対する医療は、世界の非常識であることに気がつきました。

12年には、「高齢者の終末期医療を考える会」を札幌で立ち上げ、医療・介護・福祉関係者向けの講演会と市民公開講座を、それぞれ年1回開催し、どうしたら高齢者は穏やかに人生を終えることができるかを模索しています。

15年には、ヨミドクターでのブログ連載「今こそ考えよう!高齢者の終末期医療」をもとに、『欧米に寝たきり老人はいない!-自分で決める人生最後の医療-』(中央公論新社)を出版しました。

満足して人生を終えるためにはどうしたらよいかを、家族と一緒に考えてほしいからです。

ここで、私たちが経験した我が国の高齢者終末期医療の現状を紹介します。私(礼子)が以前勤務していた病院で目にしたことです。

「病院」という場の中では、胃に穴を開けて体外から栄養剤を直接胃に注入する「胃ろう」という技術が簡単に使えます。

99歳の女性が老衰の果てに食べなくなりました。寝たきりで話すこともできません。超高齢であるにもかかわらず、主治医は家族に胃ろうが必要であると説明し「胃ろう」を造りました。

案の定、栄養剤は吸収されずに下痢となって出てきました。

さらに免疫力が落ちているため、「胃ろう」の傷口は化膿しました。結局、胃ろうを造ってから数週間後に亡くなりました。

2人目は103歳の男性です。

この方の長女が、父親の経管栄養を中止する方法はないかと、私たちに相談の手紙をくれました。

「父親が食事中に肉を喉に詰まらせ、救急病院に運ばれました。一命は取り留めましたが、意識は回復しませんでした。

医師と私たち家族は延命しないことに決めました。しかし、次に送られた病院では、家族に断りなく経管栄養が開始されていました。

私たちは『103歳まで力をふりしぼってしっかり生きた父を、もう楽にしてあげたい』と医師に経管栄養の中止を申し出ました。しかし、経管栄養は続いています。」
とありました。

3人目は86歳の女性です。この方は終末期のアルツハイマー病でした。

さらに、脳出血の後遺症で右側の麻痺まひと失語もありました。

食事は介助が必要で、毎回1時間以上かかりました。食べる量も3分の1に減りました。

唯一の身内である弟は、「もう十分がんばったので、これ以上は見るに忍びない。意思の疎通もできなくなったので、点滴や経管栄養は望まない」と言いました。

認知症病棟での治療が終わり、内科病棟に移ることになったので、私は担当医に「家族は自然な看取りを希望している」旨を申し送りしました。

しかし、その後様子を見に行くと、まず中心静脈栄養が行われ、次に鼻チューブによる経管栄養が行われました。

目には涙を浮かべていました。その後、肺炎を繰り返し、2年7か月後に亡くなりました。認知症病棟で、自分が最後まで診ればよかったと後悔しています。

そうすれば、数か月後に穏やかに亡くなったと思います。人工栄養を行った結果、3年近く延命されました。

どちらが良いのか、判断が分かれるかもしれません。しかし、この方の尊厳を考えると、人工栄養をしたことが良いとは思えません。

このように我が国では、老衰でも、意識がなくても、終末期の認知症でも、中心静脈栄養や経管栄養で延命されます。

それは、“延命至上主義”を是としている人が多いからです。

実際、家族の中には、「どんな状態でも生きているだけでいいので、できることは何でもやってください」と言う人がいます。

一方、医師も「医療とは患者の命を助けること」と教育されているので、1分1秒でも長く生かすことを考え、延命されている患者の尊厳やQOL(生命・生活の質)を考えることは、ほとんどありません。

そもそも、延命を望んでいるのは本人ではありません。

周囲の者が人の命を勝手に延ばす、これは倫理的に許されることではありません。

欧米豪では、延命は人の尊厳を損なうことから、ほとんど行われません。

日本独特の延命至上主義は、一体どこから来るのでしょうか。

「四」という数字を日常生活で避けることからも、日本には「死」を“忌み嫌う文化”があります。

それが延命至上主義につながっているかもしれません。

しかし、死を先送りしていては、人間らしい尊厳ある生涯は送れません。

“延命至上主義の是非”について考えるべきです。

皆さんはどう思いますか?


▲定年時代

「平穏死:安らかな看取りを」特養医師/石飛幸三さんが提唱

平穏死。世田谷区の特別養護老人ホーム(特養)の医師、石飛幸三さん(75)が著書「口から食べられなくなったらどうしますか?『平穏死』のすすめ」で掲げた人生の幕の引き方だ。

血管外科医として先端医療に携わってきたが5年余り前、活動の舞台を特養に移した。

そこで痛感したのは、延命至上主義が天寿を全うしようとする高齢者を苦しめている現実。

短期間で救急搬送を激減させるなどの実績を挙げた石飛さんは、「安らかな看取り(みとり)のお手伝いをするのも医療の役目」と話す。

「平穏に暮らし最期まで。話は単純だね。」石飛さんは「平穏死」を明快に定義する。

平穏死は、昨年2月に出版された著書のタイトルとして考え出された「新しい言葉」。

本人の意思が前提の尊厳死と違い、意思表示できない認知症の高齢者の看取りにも有効だ。

石飛さんは歯切れ良く続ける。「問題は、いずれは訪れる最期に向けて、家族や(医療・介護現場の)私たちが、どうすれば良いかです」

エリート外科医

広島県に生まれた石飛さんは慶應義塾大医学部卒業後、血管外科医として難手術に挑んできた。

1980年代には加藤初、新浦壽夫ら肩を痛めたプロ野球投手の手術を次々成功させ、新聞などで大きく報じられた。

勤めていた都内の大病院では副院長に。「エリート医師として、ちやほやされていた」と苦笑する。

しかし90年代半ば、病院理事の不正疑惑をめぐる調査委員長を務めていた石飛さんは、突然「定年」を理由に解雇を言い渡された。

解雇の不当性を訴えながらも、「屈辱に耐え、自分の生きざまを10年間とことん考えた」。

病院を去り05年12月、世田谷区社会福祉事業団が運営する特養「芦花ホーム」の常勤配置医になった。

「人生の終末における医師の役割を確認したい」という思いは以前からあったが、「あれ(解雇通告)がなかったら、自分は大病院でふんぞり返ったままの一生だったと思う」と。

9割は認知症

芦花ホームの入所者100人の平均年齢は87歳前後で、ほぼ9割は認知症。

着任当初、鼻に通した管や腹部に開けた穴から栄養を送られ、言葉を発することもない入所者を目の当たりにし、「人間、こうまでして生きなければならないのかと…、『理不尽』と言いたい思いさえした」と回想する。

口から食べた物を飲み込む機能が低下している認知症の入所者は、気管に食べ物が入ることによる誤嚥(ごえん)性肺炎を起こしやすい。

頻繁だったホームからの救急搬送。病院に運ばれた人は腹部の穴から胃に栄養を送る胃瘻(いろう)の処置を受け、ホームに戻されるケースが多かった。

胃瘻の後、確かに長生きする人もいる。

ただ、直接胃に入った栄養分が食道に逆流し、再度の誤嚥性肺炎を引き起こす症例もまた多い。

「口から食べられなくなったらどうしますか」。

著書のサブタイトルに取られた言葉は、石飛さんが入所者の家族に尋ねる言葉でもある。

胃ろうを全面否定はしないが、「自然の寿命を無理に延ばすことが、本人を苦しめることもあるとお話ししている」

現在、胃瘻を選ぶ入所者の家族はほとんどいない。

石飛さんは点滴などによる水分・栄養補給の問題点も挙げる。

「常識のようにいわれていた量は、やり過ぎだ。肺や心臓に負担を掛ける」。

着任後、介護士や看護師らホームのスタッフ、家族らと徹底的に話し合い、栄養・水分の量をきめ細かく調整している。激減した肺炎や窒息による救急搬送。

代わって増えたのは、老衰に伴うホームでの穏やかな看取りだった。

平穏死を普遍化

石飛さんは、ホームの職員から「私たちの取り組みを普遍化できないか」との提案を受け本を書いた。

ホームで起きていたこと、成果、課題…。ペンは医療・介護制度の矛盾、平穏死を妨げる“法の壁”も鋭く突く。

出版から1年以上たった今、「バッシングが無いことに、むしろ驚いている」と笑う。

10年余り前、平穏死に近い考えを公にした人は、激しい批判にさらされた。

「とりあえず延命治療をすれば、治療放棄と責められないという事なかれ主義は今なお根強い」と指摘するが、「新たな看取りの文化の芽生えも感じる」。

出版後、全国各地の特養や医師会だけでなく、医療・福祉とは直接関係ない市民団体からの講演依頼も相次ぐ。

看取りの「黒子」

石飛さんは「人生の幕の引き方を、日本人はもっと正面から考えるべき」と言葉に力を込める。

「死をタブー視せず語ることは、自身の生きざまを見つめ直すことにつながる」。

身も心も凍るような孤独感を経て、「私自身、順風満帆の人生では見えなかった“本当のこと”が見えてきた」と話す。

「地味な現場で身を粉にして働く人が看取りの現場を支えている。今は心からそう思える」

着任後、“人生の最終章”を見つめ続け、「幸せは名誉や富だけでは決まらないとあらためて思う」と話す。

「人の幸せは、精いっぱい生きて、心安らかに最期を迎えること」

自らを安らかな看取りのための“黒子”と位置付ける。


▲蓼食う虫の記

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んだ感想



中村仁一という老人ホーム附属診療所所長の著した『大往生したけりゃ医療とかかわるな(「自然死」のすすめ)』という本が46万部を突破するベストセラーなのだそうな。

著者は,知る人ぞ知る,往年の“クイズ王”(TVの「アップダウンクイズ」「クイズグランプリ」の優勝者)でもあります。

刺激的なタイトルに惹かれて,ついつい買って読んでみました。以下,その率直な感想です。

著者の言わんとするところは,「裏表紙」の次の文章にコンパクトに表現されています。

『3人に1人はガンで死ぬといわれているが、医者の手にかからずに死ねる人はごくわずか。』

『中でもガンは治療をしなければ痛まないのに、医者や家族に治療を勧められ、拷問のような苦しみを味わった挙句にやっと息を引きとれる人が大半だ。』

『現役医師である著者の持論は「死ぬのはガンに限る」である。』

『実際に最後まで点滴注射も酸素吸入もいっさいしない数百例の「自然死」を見届けてきた。』

『なぜ、子孫を残す役目を終えたら「ガン死」がお勧めなのか?』

『自分の死に時を自分で決めることを提案した画期的な書。』


確かに,自ら述べておられるように,「大学病院の医者を頂点とする医者の世界の歴然とした序列」の中に敢えて身を置かず,最下層の老人ホームの医者であるからこそ,ここまで大胆に切り込むことができたのでしょう。

『ほとんどの医者は「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を見たことがありません。

だから、死ぬのにも(自分たち)医療の手助けが必要だなどと言い出すのです。』
という真摯な叫びには説得力があります。

また何よりも,仏教(「苦」や「空」の思想)に造詣が深く,仏教と医療を繋ぐ先駆けとなり,「仏教と医療を結ぶ全国連絡協議会」を創生し発展させたという事実には,私利私欲とかけ離れた崇高な使命感が感じられ,好感が持てました。

私の読後感の結論を申しますと、「全体的には良心的で質の高い本」という印象です。

ただ、よくよく注意しなければいけないのは,この著者は「特別養護老人ホーム」の医師であるということ。そして,その世界から観察して得た知見が中心であるということ。

つまり私たち一般人が,その主張に納得がいき,その通りだと共感できるのは,概ね高齢者層(とりわけ老人ホームに入所するようなケース)に限られるのではなかろうかということです。

言い換えると,まだ社会や家庭で果たす役割が残っている働き盛りの青壮年の世代が,この本の内容を鵜呑みにしてこの通りに実行したらいったいどんなことになるか,大きな危惧を覚えざるを得ません。

「あの時選択を誤った」と振り返る悲惨な結果になりはしないか,そんな可能性(危険性)を孕んでいるように思えてなりません。

従って,今回は,(この著者の思い・叫びを尊いものとして大いに評価はしているものの),逆に,ここのところは“おかしい”,その通りに実践することは“ちょっと行き過ぎ”じゃないの?と感じた箇所をいくつか(16項目)採り上げてみたいと思います。

※なお,バランスをとる意味で別途「続き」にて,洞察力に富んだ「大いに共感」できる“警句”について採り上げる予定です。

①「死」という自然の営みは,本来,穏やかで安らかだったはずです。がんでさえも,何の手出しもしなければ全く痛まず,穏やかに死んでいきます。

【私】⇒自然に任せても,穏やかで安らかに死ぬことができない人は,少なからず存在します。

誰にも当てはまる話ではないと思います。


②結果がわかれば病状を好転させる術がない場合は検査をすべきではない。

【私】⇒病状が一方的に進むことが確実な場合でも,検査をして「今自分はどういう状態か」を知ることが,心の安定や今後の予定に必要な場合もないとはいえないでしょう。


③医学が本当に発達したというなら,治療法は一つあれば充分のはず。

【私】⇒ちょっと乱暴。いくつも治す良い方法があって,どれにするかは本人が選ぶのが適切というのが妥当なのでは?

④本来,医療は,本人の身体の反応する力を利用するものです。

【私】⇒医療は,本人の身体の反応する力と連携して,良い結果を得ようとするものと考えるべきでは?

自然治癒力が主で医療がその補助というのではなく,もう少し医療に力があると考えて進化しつつある現代医学を信じてもよいのでは?


⑤「自然死」は、いわゆる「餓死」ですが…

【私】⇒「餓死」とは,食物や水分を断った結果として命が終わること。言葉として適切ではない。

病気や加齢による体力低下で食物や水分を受け入れる力が減って行き,最終的には命が尽きることを言い表したいのだと思いますが…。

⑥体力がうんと少なくなった人を風呂に入れることに関して,私なんかですと,「冗談じゃねェ!」って思うんですけれども…。

【私】⇒どんなに体力が少なくなっても,風呂に入って「幸せ」と感じる人はいるのではないでしょうか?

⑦予防接種やリハビリに対する否定的な意見

【私】⇒ちょっと理解できません!

⑧突然死など起こるはずがないと思うのです。現実に起こるのは,(身体の異常の)サインをキャッチする能力を失ったせいか,あるいは無視,軽視した結果だと思うのです。

【私】⇒人の命が終わる原因は様々であり,病気であってもまるで事故に遭うように突然命が終わるということもないとはいえないでしょう。

⑨(臨終間際で)一見苦しそうに見えても,本人は苦痛を感じない状況になっていますから心配はいりません。

【私】⇒そういうケースがあるとしても,必ずしもそうでない時もあるはず。

それを見極めるのは非常に難しいと思いますが,本人がはっきりと「痛い」「苦しい」と意思表示したのなら,辛さを除去する治療をした方がよいのでは?


⑩がんで痛みが出るのは,放射線を浴びせたり,“猛毒”の抗がん剤で中途半端に痛めつけたりするせいではないか。

完全に根絶やしにできるならともかく,残党が存在する以上,身内を殺された恨みで復讐に出てもあたりまえと思っていました。

今はそれが,確信に変わっています。


【私】⇒検査によりがんが早期発見される例は数多くありますが,そんな場合にも痛みを伴うことがあるはず。

抗がん剤を打たなくても,痛みが発生することはごく普通にあると思います。


⑪それでも強烈な痛みに見舞われるようなら,よほど前世で悪いことをしたせいと思って諦めるか?

現世の“人生劇場”において与えられた役柄として受け取り,真面目に,真剣に,一生懸命のたうち回るしかないでしょう。

【私】⇒痛みが出た時に「これは何かの報いだ」と考えるのは,正しい見解だとは思いません。

少なくとも「仏教」はそんなことを教えていない。「緩和ケア」を尽くすべきだと思います。


⑫たとえ数カ月の延命効果はあったとしても,副作用が強烈でしょうから,ヨレヨレの状態になります。

【私】⇒いつかTVで「がん治療の最前線」を視聴したことがあります。

昔は効果がないと言われていた大腸がんの抗がん剤治療は、今では普通の生活をしながら外来でできる標準的な治療で,大幅に寿命を延ばせる時代になったとのことでした。


⑬現実問題として,がんに対する攻撃的治療をやりたい放題やった挙句,刀折れ矢尽きた果てに到達する場所が,ホスピスになっているのではないでしょうか。

【私】⇒私も,いろいろ見聞して「その治療はやり過ぎではないか」と思うことはよくあります。

でもそれは,ご本人や家族の希望で無理な治療を続けているというケースも多々あるのでは?という気もしています。

「攻撃的治療をやりたい放題」というのは言い過ぎでしょう。


⑭生きものは繁殖を終えれば死ぬ。

【私】⇒すべての生き物が繁殖を終えたらすぐ死ぬわけじゃありません。

むしろ,年老いても相応の役割分担ができるというのが人間の人間らしいところではないでしょうか。

⑮健康食品は,使用する以上,「鰯の頭も信心から」といわれるように中途半端や半信半疑はよくありません。徹底的に信じること,これを助言したいと思います。

【私】⇒私の身内に“徹底的”に愛用した者がいたという経験から言うと,そのためにかえって健康を損ねることになることもあるように思えてなりません。

⑯「健診」や「人間ドック」は,全く無駄で無意味かといえばそんなことはありません。なぜなら,健診業界を潤し,病院の経営安定や医者の生活保障の役には立っているわけですから,心の広い方はお続けいただきたいと思います。

【私】⇒本当は意味がないという見解のようですが、「人間ドック」でいろいろ「生活習慣病」の指摘を受けた私の経験では、頗る有意義でありました。

世の中にはそう思う人も大勢いるのではないでしょうか。





▲平穏死できない現実

今回から「平穏死」をテーマに書きます。

最近、特別養護老人ホームの常勤医を務める医師らが書いた「死」に関する本が相次いでベストセラーになりました。

一昨年は、石飛幸三氏の「平穏死のすすめ」であり、今年は中村仁一氏の「大往生したけりゃ医療と関わるなー『自然死』のすすめー」です。

これらの本が爆発的に売れるということは、「死」への関心が高まっていること。

平穏死、自然死したい!と言う国民の声に見えます。

しかし、現実はどうでしょうか?

結論から言うと、現代において平穏死するのは簡単ではありません。むしろ困難。

自分自身で求めて勝ち取らないと、平穏死は難しいのが現実です。



では、なぜ平穏死できないのか?

その理由について考えてみましょう。

医療の発展とは、すなわち「人を長く生かせること」です。

医療が発展した結果、日本人の寿命は世界一になりました。

長寿化は当たり前に感じられるかも知れませんが、世界にはまだ平均寿命が40代、50代の国も存在します。

少し前まで「人生50年」と言われたのが、現在は80年。

その結果、少子化とも相まって様々な社会問題が起きています。

医療の発展を最も効率的に享受できる場が「病院」です。

そこでは様々な専門職が集合しています。

その責任者である意思という職種を見ても、内科・外科・耳鼻科・眼科という20以上に細分化しています。

内科の中でも、消化器科・循環器科・呼吸器科・内分泌科・神経内科など、いくつもの細かな「科」に分かれています。

さらに消化器科の中でも消化管(胃・大腸)、肝臓、すい臓などに細分化しています。

西洋医学の発展とは、細分化の歴史でもありました。

臓器別・縦割りで細かく分けることで、研究・分析が効率的に行えます。

その研究の目的とは、「長く生かせる方法」を模索することです。

そんな医療システムの中で、たとえば90歳になって徐々に食事が食べられなくなったとしましょう。

内臓に特に大きな問題が見つからなければ老衰でしょう。



しかし、「病院」という場の中では、胃に穴を開けて体外から栄養剤を直接胃に注入する「胃ろう」という技術が簡単に使えます。

患者さんは「胃ろう」により、いったん元気になります。

食べられるようになり、笑顔も戻り、医療の発展による利益を享受できます。

しかし、それでもまたいつか、必ず食べる量が減る時期が来ます。

その時には、また「胃ろう」のお世話になります。

そして、ついに身動きも話も出来ない状態(いわゆる植物状態)になった時に、それを見守るご家族はふと思うことがあります。

「これは果たして本人が望んでいるのだろうか?幸せだろうか?」と。

生きていること、それだけで喜ばれる家族もいれば、生きている質(いわゆる性の尊厳)にギモンを抱く家族もおられます。

しかし、いったん始まった「胃ろう」は、わが国ではもう誰も止めることが出来ません。

「平穏に死にたい」と願っても気がついたら、植物状態になっても「延命装置によってただ生かされていた!」というケースが増えています。

今回はまず、簡単には平穏死できない時代に生きているということを、現実として知って頂けたらと思います。


▲「医療否定本」に殺されないための48の真実

生前の遺言「リビングウィル」

ただいきている時間を延ばすだけの延命治療は受けたくない…。

命の質、いわば「尊厳死」を守るには、「リビングウィル」を表明しておくことをお勧めします。

死んだ後の願い事を書くのが遺言であれば、生きている間の願い事を書くのがリビングウィル。

いわば、生前の遺言。いのちの遺言です。

たとえ生きてはいても、認知症になって自分の意思表示がきちんとできなくなったり、急に倒れて意識が戻らなくなったりすることもあります。

そうなっても、ちゃんと自分の希望の尊厳を守れるように、事前にリビングウィルを残しておくことが大切なのです。

但し、ただ書いておくだけでは不十分です。

書面に残し、判子を押し、第三者に託して保管しておくことが。

一番手っ取り早いのは、「日本尊厳死協会」に入会することです。

協会は、会員さんが署名されたリビングウィルの原本を厳重に保管管理し、医療機関から照会があればキチンと回答します。

しかし、とても残念なことなのですが、それでも不十分な場合も現実にはあります。

日本尊厳死協会では、亡くなった方のご遺族に、リビングウィルが活かされたかどうか、毎年アンケート調査を行っています。

2012年度には「活かされなかった」という人が18人もいました。

「医者との見解が違った」「無視された」「病院の都合で延命処置をされた」などがその理由でした。

遺言は、法律で保障されているため、「内容に従わなければいけない」という法律上の効力がありますが、リビングウィルにはそれがありません。

もしも家族が「最高の医療を受けさせたいから、人工呼吸器もつけて欲しい」と主張すれば、覆されるのです。

こうした事態を解消しようと言う動きが進んでいます。

リビングウィルに遺言と同様の法的効力をもたそうというのが、8年ほど前から超党派の議員連盟によって議論されている「リビングウィル法制化(尊厳死法制化)」です。

牛歩のような議論が進まない理由の一つは、言葉の誤解かも知れません。

すなわち、「尊厳死」とは、日本では「平穏死」・「自然死」と同じ意味です。

一方、海外では、尊厳死とは「医者が介助する死」を指します。これって日本では「安楽死」ですよね。

言葉の定義の間違いが原因となって、尊厳死が誤解されています。

そのため、「尊厳死」と「安楽死」を医者もよく混同しています。

(中略)

「尊厳死」つまり「平穏死」とは、亡くなる瞬間のことではなく、死ぬまでの時間、死んでからの時間も含めた一連のプロセスを指します。

「平穏生」の先に「平穏死」があります。

そのためには、患者さんだけではなく、ご家族も死の準備をしておくことが大切です。

最近、私は「どうして病院や施設で尊厳死(平穏死)ができないのか?」という最大の理由は、「待てないからだ」と思い至りました。

病院の医療は、基本的に待てません。

もちろん、一分、一秒を争う緊急医療では待ってはいけません。

でも、終末期には「待つこと」こそが大切ではないでしょうか?

待つこととは、寄り添うこと。

医療も家族も介護職も、しっかり待ち、そして待ちながらどう過ごすかを考えます。

待つということの大切さを、最近改めて考え直しています。


▲一般財団法人・日本尊厳死協会

「リビングウィル」とは?

回復の見込みがなく、すぐにでも命の灯が消え去ろうとしているときでも、現代の医療は、あなたを生かし続けることが可能です。

人工呼吸器をつけて体内に酸素を送り込み、胃に穴をあける「胃ろう」を装着して栄養を摂取させます。

ひとたびこれらの延命措置を始めたら、はずすことは容易ではありません。生命維持装置をはずせば死に至ることが明らかですから、医師がはずしたがらないのです。

「あらゆる手段を使って生きたい」と思っている多くの方々の意思も、尊重されるべきことです。

一方、チューブや機械につながれて、なお辛い闘病を強いられ、「回復の見込みがないのなら、安らかにその時を迎えたい」と思っている方々も多数いらっしゃいます。

「平穏死」「自然死」を望む方々が、自分の意思を元気なうちに記しておく。

それがリビングウイル(LW)です。



人の最期はさまざまです。医師から見放されても生き続けることを選択する人もいますし、病気が治らないのであれば、徒に命を長引かせるだけの延命治療を断りたい人もいます。

私たち日本尊厳死協会は、病気が治らないことが明らかな「不治」で、なおかつ最期が近付いている場合に、延命治療を断りたいと願っている人たちのために活動しています。



人工呼吸器や栄養を送るための胃ろうなどを断る「リビング・ウイル=終末期医療における事前指示書」を発行し、登録管理を行っています。1976年に活動を始め、現在の会員数は12万人を数えます。

日本の社会では長く、この延命治療を開始したり、中止したりすることに抵抗がありました。

人工呼吸器を着けなければ死が訪れることが明らかな場合、患者本人の希望がどうあれ人工呼吸器を装着してきました。

それは、命を助けることが医師の使命でもあり、途中で止めることで医師が罪に問われる可能性があったからです。

時代は変わり、自分の終末期の医療を自分で決める権利が認められるようになってきました。

助かる見込みがないのに何本ものチューブにつながれ、「生かされている」ことに耐え難い苦痛を訴える患者が、最期を安らかに過ごすためのQOL(生活の質)、あるいはQOD(安らかな最後)を選ぶ権利を尊重しようという流れが定着してきたのです。

それでもまだ一部には、患者の願いが聞き入れられないケースもあります。

ホームページを訪れてくれた方々が、それぞれに意義を見出していただけたらと願い、今後もみなさんの意見も取り入れつつ充実させていきたいと思っています。


▲エンディングノート

臨終の時、耳は聞こえている

病床でまさに最期の時を迎えようとしている患者さん。ベッドの周りで見守る家族。

「お父さん。いままでありがとう」

「あなたのこと、一生忘れないから」

「わたしを置いて逝かないで」

最期に思いのたけを、臨終の患者さんに伝える、そんなシーンをよくドラマなどで見ることありますよね。

あるいは戦争映画や刑事ドラマなどでも、「うーっガクッ」とうなだれた俳優をゆりうごかしながら「死なないでくれーっ!」て絶叫するシーンとか。

声をかけてるほうは感情的にはなりながらも、「本当は何をいっても聞こえていないんだろうな」なんて心のどこかで思っていたりするかもしれませんけど。

目の前で亡くなる人がいい人ばかりとは限りません。

「てめえ、死ぬ前に金返せ!」なーんて捨て台詞のひとつもかけたくなることだってあるかもしれません。

さて、ここでギモン。

そもそも、本当に亡くなる直前のひとには聞こえていないんでしょうか。

もし、しっかり聞こえているとしたら、まさに本人にとって最期に聞かされる言葉は、ものすごーく大切な、それこそ一生、いや永遠に耳に残ることになるわけで。

「金返せ!」なんて最期に聞かされたら…死んでも死にきれません。

じっさいのところはどうなんでしょうか?

「聞こえてるの?」「聞こえてないの?」

まあ、死んだことがあるひとはこの世にはいないし、天国にいるひとに「ぶっちゃけ、聞こえてました?」なんてインタビューするわけにもいきません。

そうした中、週刊ポストが興味深い記事を掲載しました。

以下、抜粋です。

「死を告げられても人の声は聞こえている!」は本当か?

死を迎えるその時、人の「最後の記憶」は何になるのだろうか──当然だが、その答えは死ななければ知ることができない。

だが、多角的に検証してみると、今際の際まで人の感覚として残っているのは「聴覚」なのだという。

ちなみに「聴覚 死」というキーワードでインターネット検索してみると、

「聴覚は最後まで残る感覚」

「死後数分は聴覚が生きていて、聞こえていると聞いたのですが本当でしょうか」

「死んだ直後も人間は人の話し声が聞こえる」などの記述にヒットする。

実は、そうした説を裏付けるような科学的な研究結果もある。

2014年10月、英国・サウサンプトン大学の研究チームが学術誌『Resuscitation(蘇生)』電子版に以下のような内容の論文を発表した。

同チームは英国、オーストリア、米国などで、心停止から蘇生した患者330人のうち、101人に対して聞き取り調査を実施した。

すると39%の患者が、心臓が再始動する前にも意識を自覚していたとの結果が出たのだ。

さらに患者の1人は、研究者らが3分間隔で鳴らしたブザー音を「2回聞いた」とも証言した。

その調査結果からは、人は心停止の後も周囲の音を認識していることが推測できる。

『臨終の七不思議』(三五館)の著者で、医学博士の志賀貢氏もこう話す。

「2007年に米ニュース雑誌『TIME』に掲載された複数の米病院からの調査報告によれば、病気や事故で心停止が起こり、緊急治療によって蘇生した人の4~18%が『誰かが耳元で名前を呼んでいる声が聞こえた』と証言しています」

なぜこのようなことが起こるのか。それを解き明かす研究データがある。

今年3月、カナダ・ウェスタンオンタリオ大学の研究者が科学専門誌に発表した研究によれば、生命維持装置を取り除かれた4人の末期患者の心拍と脳波を測定したところ、そのうち1人は心臓と血流が停止した後も10分間にわたって脳波が観測された。

緩和ケアに携わる東海大学健康科学部の渡辺俊之・教授が解説する。

「心臓が止まり、脳に血流が行かなくなった後も脳が活動を維持している場合があることを示す興味深い研究結果といえます」

というわけで、どうやら死ぬ瞬間まで耳は聞こえているらしいです。

「いや、聞こえてない!「だって、死んだばあさんに何度も声かけたけどビクともせずにそのまま死んでしまったし…。」

そうおっしゃる方もいるかもしれませんが、しかし、前述したように、死んでしまったひとに聞こえてたかどうか、確かめるわけにはいきません。

聞こえてないかもしれませんが、いずれにせよ「聞こえてる可能性がある」と思っているほうが無難でしょう。

これからは、臨終の場面に立ち会うことがあったら、積極的に声をかけましょう。

それこそ最期のチャンスなので、いままで言えなかったこと、どうしても聞いてほしかったことを、恥ずかしがらずに伝えてみましょう。

おそらく、亡くなられたあと、伝えておいてよかったと、心のそこから思えるときがくるはずです。


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